To darling you… -8-

「―――おや、今日は湯を使ったのか?」


 夜になって、宮殿の後宮にあるエドワードの寝室を訪れたロイは、エドワードから漂う石鹸の香に気づいて問うた。
「ああ、うん。熱も下がったみたいだし、湯冷めしないようにすればいいからって、ウィンリィが許可してくれた」
「そうか…」
 ロイは、夜着に身を包んで明るく笑いかけるエドワードを見て、嬉しそうに微笑んだ。
(ここまで…元気になってくれるとは…)
 一時、本当に命が危ういのではないかと思われるくらいのひどい病状だったので、これ程までに回復してくれたのが本当に嬉しかった。
(このまま、元通りになってくれれば…)
 少し遅れてはしまったが、無事結婚式に漕ぎ着けることが出来るだろう。
 彼の元気そうな姿を見れば、今躍起になって彼女を故国へと帰そうと主張する奴等も、何も言わなくなるに違いない。
 ロイ自身、どんなことがあっても、エドワードをエルリック王国に戻すことは考えていなかったが、やはり周囲の雑音は出来るだけ小さい方がありがたかった。
 何より、エドワードのためにも。
 彼には、こんな瑣末なことで思い煩わせたくないから。
「―――どうしたの、ロイ?」
 じっ…と、優しい眼差しで見つめる視線に気づき、エドワードが口を開く。
「いや……元気になってよかったって…」
「うん……」
 エドワードも嬉しそうに微笑み、ロイの座っているソファの隣にちょこんと腰掛けた。
「…でも、まだ無理はいけない。やっと良くなってきただけなんだから」
 言いながら、そっと抱き寄せる。
 その身体が、以前に比べて更に細くなってしまったのを、ロイは抱き締めた腕で感じ取っていた。
 だから。
「――――ロイっ?」
 突然ロイはエドワードを抱き上げる。
「ど、どうしたんだよ、ロイ?」
「気分が良くても、無茶はいけないからね」
 抱き上げたままエドワードを寝台まで運び、そっと下ろして毛布を掛けてやる。
「今日は、もうお休み。せっかく温まったのに、湯冷めしちゃいけないよ」
「え……でも…大丈夫だから……」
 慌ててエドワードは腕を伸ばして、自分からロイを引き寄せた。
 その時の、彼の真っ赤になった顔を見て、ロイは彼が何を望んでいるかも分かる。
 けれども――――
「……エドはやっと良くなったばかりなんだから…無理は禁物だ」
 ロイは諭すように言うと、そっとエドワードの額にキスを落とす。
「……こんな、痩せてしまったオレは…嫌?」
「え………?」
 ベッドの中で睨むような眼差しで呟くエドワードの瞳は、ほんの少し潤んでいる。
「ガリガリになっちまったオレって…魅力ない?」
「何を言うんだ、エド!」
 ロイはエドワードを抱き締める。
「だってオレ…男だし……病気で…」
 ロイを引き止められるような魅力なんて、皆無だと思っていた。
 だから…欲しかったのかもしれない。
 ロイを自分に繋ぎとめておけるような、何かが。
 それが自分の身体だとしても、それでロイを捕まえられるのなら、喜んで差し出すだろうとエドワードは考えていたのだ。
 だが、ロイは。
「誰が、嫌だと言った?」
 抱き締めたまま、そっとエドワードの耳元で囁く。
「ロイ……」
「君しか欲しくない。君以外に代わるものなんてない。…何度言ったら、信じてもらえる?」
「―――ごめん…」
 紡がれる言葉の端々に、ロイの真摯な想いが伝わってくる。
「…エドがどんなに国に帰りたいと言っても、もう帰すつもりはないからね。覚悟していたまえ」
 微笑み、触れるだけのキスを幾度も重ねてくる。
 それだけでも、エドワードは安心出来た。
「うん……。オレも、ここに居座るからな。絶対に帰らない。皇妃としてい続けるから…。浮気なんて許さないぞ。側室なんて、以ての外だ」
「君という自慢の妻がいるのに、どうして側室が必要なんだい?」
「それは……」
「世継ぎのことなら、心配無用。以前にも、はっきり言っただろう?」
「う……ん……」
 エドワードは思い出して、こくりと頷く。
 ロイは、自分の血統に後を託すことは望んでいないのだ。
 そうなればいいとは思うが、あくまでそれは、エドワードが母となる場合のことだ。だが、男であるエドワードには不可能なことなので、そのことで、彼を思い悩ませてまで残すものでもないのだと断言した。
 側室を置いて、世継ぎを作ることはしないと。
 生涯、エドワードだけだと。
 そう言い切ってくれたのが嬉しくて。
 自分の出来る限り…皇妃としての務めを果たそうと思って……。
(…頑張って…迫ってみたのにな…)
 一向に効果がなかったことに、ほんの少し自己嫌悪に陥っていた。
 そんな、エドワードの思いが、ロイには手に取るように分かった。
 分かっていたから、余計に一層愛おしくなる。
 懸命に自分のことを想ってくれている、このまだ年若い恋人のことが。
「今はまだ…無茶はしないように…」
 そっと艶やかな金糸を撫でながら、ロイは言い含めるようにゆっくりと呟く。
「また…寝込んでしまったら…ウィンリィ嬢やホークアイ達から非難轟々だろうから…」
 誰もが皆、『姫君一番!』なのだ。
 そんな状況で、無体なことは出来ないし、するつもりもない。
 ロイもまた、誰よりもエドワードが大切なのだ。
「…だから、本当に元気になってから…。その時は、朝まで離すつもりはないからね」
 と、断言するロイを見て。
 エドワードは顔を真っ赤にして睨んで、『バカ…』と呟いたが。
 すぐにロイへ抱きついて。
「――――忘れるなよ、その言葉」
 そう、小声でロイに囁いた。







『何故……あなただけが許されるの…?』
『私は、決して許されることがなかったのに…』
『ただ、いたかっただけなのに…』
『他には何も…望まなかったのに…』
『どうして……私は……』





(……誰…?)
 呼びかけてくる。
 その声が聞こえて、ゆっくりと目を開くと。
 そこは、自分達の寝室。
 自分達が使っている、皇帝夫妻の寝室だ。
 だが、そこには。
 決している筈のない『人』が立っていた。
 こんな夜更けに。
 しかも皇帝の私室に、他人など入れるわけがない。
 なのにその『人』は……
 その女性はいた。


 透けるような、白い肌の。
 艶やかな癖のない黒髪に、同じ色の瞳。
 整った顔立ちの、美しい…人が、そこに立っていた。


 エドワードとロイが寝ている、寝台の傍に。


(…この人は……)
 エドワードには、見覚えがあった。

 あの、皇家所有の離宮で、エドワードだけが見た女性。
 その人が今、傍らにいるのだ。
 そして彼女が、ロイ達のいう『守護者』であるということも、薄々察していた。
(オレを…否定した『守護者』……)
 それが突然自分の傍にやってきて、じっと見下ろしていたのだ。
 エドワードはびっくりして、思わず飛び起きようとしたのだが。
(…身体が…動かない…)
 指一本動かせない状況に、エドワードは愕然とする。
 まるで見えない紐か何かで縛られているように、身動きが出来ないのだ。
(これは……!)
 隣に眠っているであろうロイに声をかけようとしても、身動きすらままならず、声も出てこない。
 意識だけははっきりしているのに、体が動かせない状態のエドワードには、背筋をじっとりと伝う汗の感覚だけが、妙に生々しく感じられた。

 そんな、驚きと恐怖で瞳を見開いて見つめているエドワードを、『守護者』と思しき女性は冷たい眼差しで見つめていて―――
 その細い指が、するっとエドワードの首に掛かる。
(――――!)
 女性の力とは思えないくらい強く、指がエドワードの喉を絞めてきた。
(何て…力…)
 その指を振りほどこうとしても、全く動けない状態ではどうすることも出来ない。
 そうしているうちにも、更に首に纏わりつく指に、一層力が込められていく。
 苦しくて苦しくて…。
 息が次第に出来なくなって…無我夢中で開いた唇から、エドワードは今、唯一助けを求められる人の名を呼んだ。

(……ロイ……ロイ…!)

 絞められているので、喉がヒューヒューとしか鳴らない。
 言葉にはならなかったけれど、呼び続けた。

(――――ロイ…!)


 すると。

 突然のことだった。

 首筋に込められた、圧迫感が呆気なく消え去ったのは。
「……あ……」
 開かれた唇から、いきなり空気が入ってきたので、エドワードは一瞬むせ返ってしまう。
(…一体…どうして…?)
 咳き込みながら、視線を巡らせた先には。
 『守護者』が立っていた。
 それからは先刻までの冷めた表情は消え果て、少し怯えたような…ひどい嫌悪を表したような表情に歪められてしまっていた。
(……何が……?)
 彼女をそこまで、怯えさせているのだろうか…。
 苦しい息の中で、エドワードがふとそう思うくらいの変貌ぶりだった。
 だが、彼女は、エドワードがその疑問を深く考える間を与えることなく、姿をかき消してしまった。
 すうっ…と闇に溶け込むかのように。
「消え…た…?」
 掠れた声が辛うじて出て、身体も動かせるようになった。
 それとほぼ同時に。

「――――っ…」
 全身を悪寒が襲う。
 寒くて…己の身体を抱き締めた。
「な……に……?」
 ガタガタと震えながら、エドワードは、次に、自身を高熱が襲い掛かってくる感覚に陥る。
 炎が…自分を食らい尽くすかのような…。
(熱い………)
 震えながらも、汗が浮かぶ。
 頭がガンガンと痛む。
 息をするのも苦しい。

 このままだと、自分の身体はおかしくなってしまう…。
 そう思いながら、呻いていた時に。

「――――エド…どうしたんだ?エド…!」

 すぐ傍から……間近から、ロイの叫び声が聞こえてきた。

 その声に反応して、ゆるゆると瞳を開く。
「…ロイ……」
 目の前には、ひどく心配そうな、ロイの顔が飛び込んできた。
「エド……どこが痛むんだ?今すぐウィンリィ嬢を呼ぶから、それまで辛抱するんだぞ…!」
 慌てた様子でそれだけ言い、急いで呼び鈴の紐を引く。それを鳴らすと、誰かがこの部屋に駆けつけてくるという仕組みになっていた。
「……ロイ…オレ……オレ…」
 痛みと熱さで、からからになった喉から、懸命に声を振り絞る。
「エド…!無理に話さなくてもいい!」
 と、止めようとするロイの、夜着の袖をギュッと握り締めて、エドワードは首を微かに横に振った。
「…今…言っておきたい…から…」
 苦しい息の中で、やっとのことで話そうとする。
「一体…何を?」
 この愛しい人は、言葉が掠れて、切れ切れになりながらも、何かを必死に言おうとしている。
 そのことがわかったロイは、彼の唇が動くのを待った。
 どっちにしろ、ウィンリィ達が来てくれないと、自分には何の手の施しようもないのだから。
「オレ……オレ……離宮で…『守護者』に会った……」
「な……!」
 エドワードの言葉を聞いて、ロイの目が驚愕に見開く。
「そしてさっきも……『守護者』がここに…いた…。長い黒髪の…黒い瞳の…とても綺麗な女性……」
「エド……それは…!」
「だけどオレ……」
 荒い息の中、懸命に語ろうとするエドワードの言葉を、ロイは辛抱強く聞き続けた。
 そしてそれは、ウィンリィ達がやってくるまで続けられ、聞いて行くうちに、ロイの表情が険しいものへと変化いくのに、そう長い時間はかからなかった。