――――闇が…続く。
自分が今、どこにいるのか分からないくらいに、真っ暗な闇の中。
その中を、歩き続けていた。
あてもなく……ただ、歩き続けていた。
どこかに…、手がかりがあることを願って。
(……ここは…どこ…?)
自分のいる場所が、全く分からない。
だから、歩くしかなかった。
止まっていても、この闇は消えてくれそうにないから。
ただ、ひたすらに歩き続けて。
どれくらい、時が経過したのか……
(―――誰か…呼んでる?)
闇の中から、微かに響いてくる『音』を、敏感に察知した。
この場所には、他に音がないから、どんなに小さい音でも耳に入ってきたのだ。
(……誰?)
闇の奥。
墨を溶いたような、一層暗い闇の彼方から、呼ぶ声が微かに聞こえてきたのだ。
それは確かに、自分を呼んでいた。
(…誰が…オレを呼んでいるんだ?)
闇の奥から、自分を呼ぶ声。
『コチラヘ……』
自分を招く声。
その声に、咄嗟に反応していた。
他に、この場での手がかりはないから。
ここがどこなのかというのが、分からないから。
だから、その呼び声に縋るしかなかった。
(……誰…?)
声に従って、更なる闇へと歩を進めようとした時。
背後から、突然手を掴まれた。
(……え…っ?)
力強い、手。
だがその指はとても細いと、握られた感触から分かる。
その手が、深淵の闇へと向かうのを、静止したのだ。
(……誰が……?)
恐る恐る振り向くと。
すぐ間近には。
(―――綺麗な女性…)
思わずそう賞賛したいくらい、美しい女性が立っていて、先に進むのを阻んでいた。
艶やかな黒髪。
それが腰辺りまで長く伸ばされていて、軽くウェーブがかかっているために、彼女が動く度にふわふわと舞うように揺れていた。
そして、吸い込まれるくらい澄んだ、黒い瞳は、慈しみを湛えているかのように優しく見つめてくれている。
そんな、誰が見ても美しいと認めるであろう女性は、自分が今いる国の皇族の特徴を、如実に表していた。
黒髪に黒瞳。
透けるような白い肌。
それは、マスタング皇国の皇族の女性の殆どに見られる、身体的特徴だ。
だから、すぐに分かった。
(この人も……恐らく……)
皇族の一人、だと。
(だけど、会ったことないよな…)
目の前にいる女性とは、面識がなかった。
一応、皇族と言われる人達とは、挨拶くらいはしたのだが、目の前の女性は全く記憶になかったのだ。
(だけど……どこかで見たことがある…ような…)
そんな気がする。
(……どこで……?)
思い出そうとしたが、なかなか出来なくて。
彼女の顔を見ながら考え込んでいるうちに、彼女は突然繋いだ手を引っ張ったのだ。
(――――え?)
その女性は、ぐいぐいと腕を引っ張って、連れて行く。
声のした、闇の奥とは反対の方へと。
(ど、どこへ…?)
手を繋いだままなので、ただ彼女についていくしかなかった。
振りほどこうとしても、出来なかったから。
細い指に似合わないくらい、強い力で固く握り締められていたから。
(…どこへ、連れて行くつもりなんだろう?)
その、見覚えのあるような、綺麗な女性は、黙ったままで歩き続ける。
だけど、何故だか不安にはならなかった。
握り締めた彼女の手が温かくて、安心出来たから。
それに――――
(それに――――)
少し先を歩く、一向に喋ろうとしない女性をちら、と見る。
(この人……似てる……)
だから、より一層安心できるのだ、と。
そう思った時。
突然、彼女の歩みが止まった。
続いて振り向いた彼女は。
そっと優しく微笑みかけて。
(ああ、やっぱり……)
その笑顔を見て、確信した直後。
彼女の手が、ポン…と軽く身体を押して。
ふわりと身体が闇の中に浮かぶような感覚に囚われた瞬間。
エドワードの周りにあった闇が霧散して。
眩いばかりの光に包み込まれ――――
一瞬…ほんの一瞬、彼女の声が耳に入ってきた。
『あなたは…ここに来てはだめよ。まだ……』
「――――あ……」
眩い光が消え去った後には。
「……エド…っ!」
自分を呼ぶ、切羽詰った声が、意識を呼び戻してくれた。
それは、愛しい人の、声。
そして、ゆるゆると重い瞼を開くと。
「ロ……イ……」
ひどく掠れた声で呼ぶと。
大好きな…人が、心配そうに自分を見つめてくれていた人が、安心したように笑いかけてくれる。
「やっと…やっと意識が戻った…」
安堵したのか、大きく息を吐き、自分を見つめる男の顔を改めて見て―――エドワードはやっと、気づいた。
気づき……確信した。
あの、暗い暗い闇の中で出会った女性。
とても美しくて、優しい人。
その人が。
(………ロイと、とてもよく似てる…)
と。
「…私によく似た…女性が?」
「――――うん…」
エドワードは、ゆっくりと頷いた。
マスタング皇国の宮殿に到着したウィンリィが、意識のないエドワードを早速診察し、治療を開始した直後のことだった。
それまで、どれ程に手を尽くしても目を覚まさなかったエドワードの瞳が開いたのは。
未だ、熱が下がらないので絶対安静なのだが、それでもとりあえず意識が戻ったことを、その場にいた者達は皆喜び、エルリック王国の医療技術の素晴らしさを褒め称えた。
そして…一通りの治療を終えた後に、少しだけならという条件付で、ロイはエドワードと久しぶりに二人だけで話をすることが出来たのだ。
「ずっと…ずっと歩いていた闇の中で、会ったんだ。ロイとよく似た女の人と」
思い浮かべる度に、確信する。
あの、真っ暗な闇の中で出会った美しい人は、ロイと容貌がよく似ているということを。
同じ皇族だからというのではない。
彼女とロイには……明らかに、それより『近い』ものを感じたのだ。
「その人が……オレを、戻してくれた。この世界へと…」
「エド……」
「あの人が止めてくれなければ…」
自分はどうなっていたのだろうかと、思う。
あの、深い深い闇の中をさ迷い歩き続け、永遠に出られなくなっていたのではないだろうか…そんな気がしてならない。
それを、彼女は止めてくれて、戻してくれたのだ。
ロイのいる、この世界へと。
「エドが会ったという女性は…もしかしたら、私の母かもしれないな…」
「ロイ…の?」
「ああ。私が小さい頃に亡くなった…。ここに残されている肖像画や写真を見る限り、私と似ているからね…」
「あ……それで…」
エドワードはようやく気づいた。
彼女を見たことがあると思ったのは、気のせいではなかったのだ。
この宮殿内に飾られている、ロイの母―――前皇帝の妹姫―――の肖像画を、幾度か見たことがあったから、そんな風に思ったのだろう。
それに、確かに彼女は、ロイと面差しがよく似ていた。
実の親子だから当然なのだろうが、それ故に、一層彼女に親近感を覚えたのだろう。
「……母が、エドをこちらに戻してくれたのだろうね」
「―――うん……」
恐らく、そうだろう。
エドは思った。
ウィンリィの治療も、意識を呼び戻す要因となったのであろうが、あの漆黒の闇の中で、彼女の導きがなければ、今、こうやってロイと話すことも叶わなかっただろうという、確信めいた思いも持っていた。
「―――母に、感謝しないといけないな。だが……」
そっとエドワードの頬に手を当てる。
その、自分の掌から、エドワードのかなり高い体温が感じられて、未だ彼の病状が重いことを認識させられた。
「今日は…これくらいで止めておこう」
「…ロイ?」
「君はやっと、意識が戻ったばかりだからね。無理はいけない」
「―――う…ん……」
休むように促されると、エドワードは素直に応じた。実のところ、熱の篭ったままの身体はだるくて、指を動かすことすら億劫なのだ。
このまま無理をすれば、また意識を失ってしまうかもしれない。それだけは、避けたかった。
「私は、ここにいるから…。安心して休むといい…」
「―――ロイ、仕事は…?」
「この部屋に運ばせている。エドの傍でするから、心配しなくてもいいよ」
「う……ん……」
ロイの言葉に安心したのか、エドワードはうつらうつらとまどろみ始め、やがてそれは落ち着いた呼吸音の伴った、深い眠りへと変わっていった。
(……このまま…回復してくれれば…)
祈るようにそう思いながら、ロイは先刻よりもずっと安らかな寝顔になっている、愛しい人の貌を見つめ続けていた。