家族三人が、亡命先で行方知れずの愛娘のことを案じていた、その頃。
マスタング王国の後宮にいる、その愛娘は。
読み耽っていた文献を閉じ、大きく伸びをしていた。
「―――――あ〜あ、毎日毎日、こんなにのんびりしていてもいいのかなあ?」
天窓から暖かい陽の光が差し込む中。
エドワードはソファに横たわってぼんやりと呟いた。
マスタング王国の、現国王の後宮に納められて、一月以上が経過していた。
納められていた当初は、妃の一人でもなかったので、それなりに日々の雑用をこなしていた。そのために、時間の経過が早かったのだが……。
エドワードの行方を今も追っているという、アメストリス帝国の目から逃れる目的で、ロイの寵妃になった今は、身の回りのことの大半は、専属の侍女がしてくれるようになり、自分で何かをするということはなくなってしまったのだ。
そのため、毎日、文献を読むか、夜にこの場所を訪れるロイの話し相手をする以外の暇な時間を持て余すようになっていた。
たまに気晴らしで、自室の片付けなどしようものならば、すぐさま侍女が飛んできて、
『これは、私どもの仕事ですから』
と制止されてしまう。
お陰でエドワードは、毎日、暇を持て余すようになっていた。
「……贅沢言っちゃいけないのは、分かってるんだけどな…」
アメストリス帝国に狙われている亡国の王女を、わざわざ寵妃にして隠し通そうとしてくれるのだ。
かの国に見つかった時の、危険も顧みず。
だからこそ、現在の境遇を感謝することはあれども、不満を言える筈はなかった。
「だけど……」
エドワードは、ふと、見上げる。
そこには、透き通るほど晴れ渡った、青い空が広がっていた。
しかし、視線を下へと戻せば。
到底飛び越えることの出来ない、高さと頑強さを備えた壁が、自分の前にそびえ立っていた。
外の世界と、後宮とを遮る、高く厚い壁が。
その壁を、時折飛び越えたい衝動に駆られてしまう。
特に、こんな風に何もすることがない時は。
壁の向こう側の、他国の風景を見てみたい。
この宮殿にやってくるまでの道中は、人買いに連れられていたためにのんびりと風景を見ている余裕など全くなかったから、この国の様子など殆ど記憶にないと言っていいだろう。
だからこそ、見たかった。
この国で生きる、人々の姿を。
女性達の姿を。
リザの話を聞いた限りでは、普通の女性もこの後宮の暮らしとそう変わらないという。奴隷でない限りは、自由に外へ出ることは可能だが、その際には、極力肌や顔を露出しないような服装で出歩くこが習慣化されているそうだ。人の妻であろうと、未婚の女性であろうと、その姿を身内以外の他の男達に見せることは、この国ではタブーとなっているのだ。
『……どうして…そんなに女性の姿を隠さなければならないんだ?』
最初、リザからその話を聞いた時、エドワードは正直驚いていた。
自分の暮らしていたエルリック王国では、到底考えられない習慣だからだ。母国では、性差での能力の違いはあるものの、基本的に男女同権を旨としていて、女性も積極的に社会へ進出していた。当然、大勢の人々の前でも、女性は素顔を隠すことなく、活発に働いている。小さな国だからということもあろうが、女性も立派な働き手として認めていたのだ。
それが、この国……マスタング王国は、全く違っていた。
女性の社会進出なんて、絶対に無理な環境に、女性達は置かれているのだ。
自国とそう離れていないこの国での、女性への対応の余りの違いに、エドワードが驚くのも無理はなかった。
そんな彼女の疑問を聞いたリザは、深く頷きつつ、丁寧に説明をしてくれた。
『この国の女性への扱いがこんな風になってしまったのは……エルリック王国とは違う、この国の歴史があったからなのよ』
と。
『歴史……?』
『そう。我が国も、建国当初は、女性をここまで隔離することはなかった。いいえ、むしろ政の世界にも、積極的に登用していたと、史書にも残っているわ。だけど……一つの事件をきっかけに、この国は変わってしまったの』
『事件って……』
『今から約百五十年前のことよ』
リザは、眉をひそめて厳しい顔をしながら、エドワードにゆっくりと語ってくれた。
約百五十年前。
当時のマスタング王国の国王は、三代目。建国した初代の直系の孫に当たる男が支配する頃のことだった。
その時の王は、ある一人の女性と出会い、彼女を見初めた。
その女性は、初代国王の頃から付き従っていた、重臣である宰相の一人娘。
身分的にも問題なく、彼女は王の妃として宮殿に迎え入れられた。
結婚当初は、二人の仲も睦まじく、跡継ぎとなる王子も生まれ、順風満帆な暮らしぶりだったのだが――――
王が、突然の病に倒れてから、状況は一変した。
それまで、国王の良き妻で、王子を育てることに専念していた妃が、王の代わりに政治に口出しし始めたのだ。
だがそれも、正当なものならば、誰も批判などしなかった。
妃は、病床の王から政治の全権を任されたと宣言し、その後は箍が外れたかのような暴政を始めたのだった。
病床の国王の代理。
そして、次の王となる、皇太子の母として。
国民のための政ではなく、自分の息子と、一族のための圧政を始めた。
少しでも、彼女のやり方を批判しようものならば、国王に対する反逆の意があると見なし、例え重臣であろうと容赦なく一族諸共断罪した。
そのような執政を続けていくにつれて、面と向かって王妃を諌める者はいなくなったが、密かに不満を持つ者達は、確実に増えていった。
そうしているうちに、病に臥せっていた国王が逝去し、王妃は、いよいよ自分の生んだ息子が王位に就くと、大喜びしていたのだが。
『王妃の夢は、夢のままで終わってしまったのよ。……あれ程即位を待ち望んでいた皇太子が、即位式の直前に、病で呆気なく亡くなってしまわれたのよ』
王妃は、息子の突然の死を嘆き悲しんだ。
だが、嘆いているのも束の間だった。
皇太子の葬儀が終わるやいなや、彼女は時の宰相達によって拘束されたのだ。
『――――王妃に、反旗を翻したんだ…』
『ええ、そうよ。これまでの圧政に耐え忍んでいた時の宰相達が、皇太子が亡くなった直後すぐさま起ち上がったのよ。亡くなられた国王の弟を、時期国王に担ぎ上げてね』
その王弟も、王妃に疎まれて、国政から遠ざけられていたこともあり、王妃を斃すことに賛同したという。
『それで……王妃は…?』
『宰相達に拘束され……裁判の後に処刑されたそうよ。国を混乱に導いた者として』
エドワードも、薄々そんな結末になったであろうことは想像していた。
『…その後、王弟が第四代の国王に即位し、再びこの国に安定が戻ってきたの。新しく王となった方は、善政で今でも国民に賢王と称えられているわ。その王の血統が、今の陛下に続いているのよ』
『まさか……この国の女性達が虐げられているのは、例の王妃のせいなの?』
ここまでリザに説明されて、エドワードも段々と理解出来ていた。
この国が、女性を表舞台から遠ざけている、理由を。
そしてそれは、リザの肯定を示す頷きで確信へと変わったのだ。
『あなたの考えている通りよ。王妃の暴政の後、国王や宰相達は二度と女性に政に口出しさせないよう、法を整備したの。女性は政治に参加できないよう、事細かな規制を作ったわ。その結果、今の状況があるわけ』
『そ……んな…。全ての女性が、その王妃と同じじゃないのに…』
『そうね…あなたの言うとおりだわ。でも、女性全員があの王妃と同じことをするわけがないと考える一方で、同じようなことをしでかす女性もいるかもしれないと、彼等は考えたのよ。ならばいっそ、女性全てを表舞台から遠ざけた方がいいと思ったんだわ』
確かに、そうする方が男達にとっては手っ取り早くて簡単だ。
けれど――――
『……中には、有能な、国のためになる女性もたくさんいるだろうに…』
そう、例えば今、目の前にいるリザのように。
国の発展に寄与するような力を持つ女性達も、これまでたくさんいただろうに、この国の執政者達は、その可能性を最初から摘み取っているのだ。
たった一人の女性が犯した過ちを、二度と繰り返さぬようにと。
『―――でもね、時がたつにつれて、この国を取り巻く、女性に対する考え方も少しずつ変わってきているの。あなたと同じように思う男の人も、最近では増えているみたいよ。…例えば、陛下みたいに』
『陛下って……ロイ?』
『他にはいないわね』
『でも…女を表の世界から遠ざけようと決めた人の子孫が……?』
エドワードは驚き、瞳を丸くする。
よもや、国王自身が女性の立場についての意識を変えているとは、思いもしなかったからだ。
『……陛下の母君、つまり前王のお妃様が、後宮でご苦労されておられるのを、成人するまで間近でご覧になられておられたから、陛下は元々、自分の後宮を持つということには消極的だったの』
ロイの父、前国王は、歴代の王と同じく国中の数多の美女を後宮に納めさせていたというから、その女性達の間での妍の競い合いは凄まじいものだったらしい。当然のことながら、ロイの母親も、ロイが皇太子になるまでは寵愛を得ようとする美女達からの陰湿な嫌がらせで泣かされていたようだ。
『―――それでも、宰相達の中でも保守派と言われるご老人方から、後宮を造るようにと散々言われて、止むに止まれずとりあえず形式だけ造ったのが、現在のハレム、というわけなのよ』
リザの話を聞いて、エドワードはようやく納得がいった。
この国の、女性の地位が低い理由と。
そして、ロイの後宮が、広さの割には中にいる女性の数がかなり少ないことに。
『陛下は、仕方なく後宮の形式だけは整えてみたけれど、そこに女性達を掻き集めるような真似はしていないわ。現在ここにいる女性達にも、手をつけるつもりはないみたい。そうして…少しずつ、この国の女性の地位を高めて、男性に依存せずとも生きてゆけるようにしたいとお考えのようだから…。いずれは、後宮の制度自体もなくしたいとお考えのようね』
『――――そこまで……』
『尤も、陛下はわざわざ後宮を持たずとも、お忍びで街中に繰り出しては、女性達と戯れてらっしゃるようだから…単に必要性がないだけ、かもしれないけれど』
と、リザは笑いながら冗談めかして呟いたが、すぐさま真顔に戻った。
『でも、女性の地位を向上させようと考えておられるのは、本当よ。既に、ハボック殿やヒューズ殿と言った、若い革新派の宰相達に打ち明けて、動き始めているから……』
だから、この国は近いうちに驚くべき変革を遂げるかもしれない。
リザは、小声で呟いた。
そして。
『―――私も、そのお手伝いをしたいと思っているわ。女は、家の奥にひっそりと篭って、ただ男が来るのを待つだけが能じゃないのよ、とこの国の石頭な男達に知らしめてやりたいから……。前例がないわけじゃないしね』
そう言い切ったリザの顔は、この国の理不尽な風習を変えてやりたいという覇気に満ち、生き生きとして、エドワードにはとても頼もしく見えた――――――。
「……けど…なぁ…」
そこで、思い返すのを止めて、エドワードは再び現実に戻る。
自分の前にそびえ立つ、重厚な壁の存在を。
自分と、外の世界を隔絶する、今は決して飛び越えられない、高い『壁』の存在を。
「――――この壁が壊されるのは、いつになるんだろう…?」
ロイ達が、この壁を壊そうと動いているとしても、取り払われるには今少し時間がかかってしまうだろう。
それは仕方のないことだ。
しかし――――
「……この壁がなくなった後に、オレは戻れるのかな?」
故国は、もうない。
だから、帰るとすれば、家族のいる場所しかない。
けれど、帰るためには………
「アメストリス帝国が…オレの捜索を諦めてくれなければ…」
そうでなければ、家族の許へ帰れない。
自分の存在が、あの帝国の関心を示す対象である限りは、決して帰ってはならないのだ。
もしそんな状況で、自分の居場所が知れたら、そこで暮らしている人々に多大な迷惑をかけてしまうからだ。
アメストリス帝国侵攻という、多大という表現では言い切れない程の迷惑を。
「だから……もう暫くここにいなくちゃいけないか…」
この、外と隔絶された世界で生きなければならない。
今なお、アメストリス帝国はエドワードを探しているということだから。
自分に、大国が狙うという価値があるのか、今一つピンと来ないのだが、斥候を放っているらしいという情報は、本当のようだ。
だとすると、もしここにいることが知れたら、かの国はすぐさまここへと攻め込んでくるかもしれない。そんなリスクを背負っているのを承知の上で、エドワードを匿ってくれているこの国の王のためにも、自分の存在は隠されたものでなければならないのだ。
だから……我慢しよう。
再び、誰憚ることなく、外の世界で歩けることを願って。
この壁に囲まれた世界での生活に、耐えよう。
エドワードは、壁の上に広がる、晴れ渡った空を見つめて思った。
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