ここ最近。
マスタング王国の宮殿内では。
とある一つの噂が、まことしやかに広まりつつあった。
その噂が広まっているのは。
現在のところ、内廷で国王に仕えている、宰相達と。
そして、後宮内で暮らす、女性達の間でのみだった。
「あの、自分の後宮には滅多に足を踏み入れず、夜毎こっそりと街に出ては、盛り場をうろついて夜の徒花達を愛でていた、はっきり言って女性に関しては、国の主にあるまじき行いばかりをやってきた現国王陛下が、今では、政務以外は後宮に入り浸る程の寵妃がいるっていうのは、本当なんですか?」
と、書類を目の前の主君に手渡ししながら、ハボックは一息に言い切った。
「―――ハボック、おまえな…」
臣下が言っているとは思えぬ内容に、ロイは呆れ顔になって呟く。
「その話を、一体誰から聞いた?」
「聞いたって……宰相連中の間では、専らの噂ですよ。毎晩のように夜遊びしていた国王が、ぱったりとそれを止めて後宮に向かっているなんて、絶対に気に入った女性が出来たんだって」
「………そこまで、遊んでいた覚えはないぞ?」
「自分の悪行を過小評価しないでくださいね。陛下の女癖の悪さは、庶民の間でも有名なんですから」
「女癖などと…」
部下の歯に衣着せぬ物言いに、ロイは流石に聞き咎めてしまう。これではどっちが主君か分からない。
だが、それを怒ろうとは思わなかった。
この場には、ロイとハボックしかいないからだ。
他人の目がある時は、流石にハボックも己の分を弁えて、臣下としての礼儀を忘れずにいるが、乳兄弟としての間柄もあってか、二人だけになると昔からの友人のような話し方に戻っていた。
そんな彼の態度をロイ自身も別段気に留めず、ハボックの言うに任せていた。
それだけ、ハボックを信頼していると言ってもよいだろう。
しかし、今回ばかりは、未だこの幼馴染の間柄の男にも、伝えていないことがあったのだ。
彼は、信頼に値する男だ。
その飄々とした見かけとは違い、意外と口が堅いことも良く知っている。
ロイが口止めをすれば、彼は決して他人に言うことはないだろう。
そう、確信してはいたが、言うことは出来なかった。
ここは、宮殿内の内廷。
その中の『謁見の間』だ。
後宮の奥の奥、ロイの寝所とは違う。
この場に通されるのは、ごくごく限られた、国王に許された者のみだが、それでも、後宮に比べると遥かに多くの人々が行きかう場所だ。
いつ何時、二人以外の人間に聞かれるか分からぬ場所で、この重大事を声に出すわけにはならなかった。
(その寵妃とやらが、実際はアメストリス帝国に滅ぼされた、エルリック王国の王女だとは…)
そして、寵妃とは形式だけのものであり、実際はかの王女を匿うための方便なのだということも、この場で打ち明けるわけにはいかなかった。
何故なら―――――
(王女の行方を、アメストリス帝国が捜していなければ、すぐにでも公表すればよいのだがな…)
何が目的なのかは、分からない。
女官長のリザ・ホークアイを通して、その理由については現在調査中なのだが、あの、常にマスタング王国と勢力が拮抗している大国・アメストリス帝国が、隣国に亡命したエルリック王国の国王一家の存在は無視して、専ら唯一行方知れずとなっている、現国王の王女殿下を捜索しているという動きが、リザを通してロイの耳に入ってきたのだ。
もしそれが事実ならば、王女を彼女の家族の許に帰すわけにはいかない。
そんなことをしたら、アメストリス帝国はすぐさま亡命先に攻め込むだろう。
かの国を治める皇帝、キング・ブラッドレイはそういう男だ。
目的を達成するためには、決して容赦しない。
そんな冷酷な男だから。
彼とこれまで幾度か、国境での小競り合いで刃を交わしたことがあるロイだからこそ、その冷酷非情さはよく分かっていた。
故に、ロイの寵妃が、エルリック王国の王女であるという事実は、決して外に漏れてはならぬ事だった。
乳兄弟であるハボックにも、迂闊には打ち明けられぬほどの……。
(だが…ハボックには知っていてもらいたいな…)
ロイにとって、心から信頼できる数少ない部下である。
出来れば、今の状況を彼には言っておきたかった。
(仕方ない…。今夜私室にでも呼ぶか…あるいはホークアイ女官長から話してもらうよう頼むか…)
仕える場所が内と外で違えども、どういうわけかリザとハボックは、馬が合うようだ。
情報を共有し合うという目的も兼ねて、二人で頻繁に会っているらしいので、彼女の口から言ってもらった方が怪しまれないかもしれない…とロイは考えを頭の中でまとめつつ、目を通した書類をハボックに渡しながら、口を開いた。
「――――あちらにも足を運ばねば、不評を買うと思ったまでのことだ。現に女達からは、滅多に来てくれないと不満たらたらだったからな」
「……で、今は、たった一人の女性に会うためだけに、後宮を訪ねている、なんて言われているんですよ?」
「言いたい奴には言わせておけ」
ハボックの忠告に対し、すげなく返す。
「…ま、宮殿の外へ出て、夜遊びされるよりはよっぽどましですが、オレとしては。これで、世継ぎの王子様が生まれれば、万々歳というわけですし」
「―――せっかちだな、おまえは」
まだ、寵妃目当てに、後宮へと通い始めたばかりなのに、世継ぎの話へと一足飛びに行ってしまうハボックを見上げて、ロイは苦笑を浮かべた。
「オレだけじゃないですよ。国の大半の人々が、国王の世継ぎ誕生を今か今かと待っているんですから…。それなのに、即位して五年も経つというのに、滅多に後宮に足を運ばずときているから、心配になるのも当然です」
だから、この度のロイの行動は、ハボックのみならず、この国で彼に仕える人々から見れば、喜ばしいことであった。
「――――それ程に、お綺麗な女性なんですか?」
「何だ、おまえの興味が向くのは、そこか?」
「いや…まぁ…。陛下を骨抜きにするのはどんな美姫なんだろうかという、純粋な興味だけですよ。第一、オレは多分一生お目にかかることはないでしょうからね…」
普通ならば、ハーレムに住まう妃達が、宰相達の目に触れる場所には絶対に出てくることはない。彼女達は、国王のためだけに集められた女性だ。だからこそ、後宮という宮殿の奥の奥で生活し、他の男達の目に触れぬよう、厳しく管理されている。
そこに住まう美女を見ることは、永久にないだろうから、せめてロイの口からどんな人なのかを聞こうと単純に思い、出てきた言葉だった。
――――すると、ロイは。
「…ハボック。彼女は、おまえが想像しているような美女ではないぞ」
クスッ…と口の中で小さく笑い、答えた。
「おまえ好みの、肉感的な美女ではないのは、確かだな」
「えっ、そうなんですか?」
ハボックは驚く。
自分もそうだが、この主君も確か、成熟した大人の女性が好みだった筈なのだ。実際、ハボックが時々目撃した、夜遊びの相手として選んだ女性は、どれもスタイルの良い、出ているところはきっちり出て、めりはりののある美女ばかりだった。
それが、後宮内で寵愛している妃は、違うと言う。
いつの間に、宗旨変えをしたのか…とハボックが考えていると、ロイは話し続けた。
「確かに、美女は美女…だな。もう少し育てば、絶世の美女になるだろう。金の髪に金の瞳は、とても美しいし、肌も白くて滑らか。惜しむらくは、胸が少々小さいことかな。機転も利いていて、頭もいい。話をするには楽しくて、退屈しない相手だよ」
「……陛下、それって誰のことを話しているんですか?」
「おまえが聞きたがっていた、寵妃のことだ。他に誰がいる?」
「いや……まぁ…その…」
ハボックは言い澱んでしまう。
確かに、ロイが話したのは、今、彼が寵愛している妃のことだろう。自分が尋ねたことに対し、目の前の主君は律儀に答えてくれたのだ。
だが………
「陛下…、つかぬことをお聞きしますが…」
ゴクリ、と喉を鳴らし、恐る恐ると言う風にハボックは一旦閉じた口を再度開いて問う。
「何だ、まだ何かあるのか?」
いい加減、自分の机上に溜まりに溜まっている書類の山を、本格的に処理したいと考えていたロイは、少しばかりイラついた口調で返す。
ロイとしては、少しでも早く今日の執務を終わらせ、後宮に向かいたいのだ。
今日は偶然、資料を探すために宮殿内の書庫を訪れた時に、彼女が読みたがるであろう古書を発見したのだ。
それを持って行けば、あの少女はどんなにか喜ぶだろう。
金色の髪と瞳を持つ、美しい黄金の少女。
後宮に来た経緯が普通ではなく、とてつもなく悲惨なものなのに、それに臆することなく懸命にその場所で生きようとしている。
訪れてくれるロイに対しても、いろいろと彼女に対し便宜を図ってやったためだろう。健気なくらいに気を遣い、また機転が利く可愛らしい小柄な少女。
このところは、ロイと共通の話題が出来て、夜毎楽しげに話し続ける少女。
そんな彼女の、忌憚ない笑顔を見ることが、ここ最近のロイの密かな楽しみとなっていた。だからこそ、彼女が喜ぶに違いない本が見つかり、今夜は必ず彼女の許へと向かうべく、彼にしては珍しく、仕事に勤しもうとしているのだが―――――
意識してないにせよ、仕事の邪魔をするハボックに対し、ロイの機嫌は少々悪くなっていた。
しかもその無駄話の内容が、今、ロイが最も気にかけている少女について、だった。
彼女の身の上もあって、公に出来ない存在であるのに、ハボックは興味本位で次から次へと少女のことを尋ねてくる。彼女の経歴をを詳しく教えていないから、仕方のないことなのだが、それが次第に鬱陶しくなり、イライラし始めていた。
彼女のことは、これ以上喋りたくない。
彼女を、余り他人に知られたくない。
彼女のことは、私だけが知っていればいい。
そんな思いがロイの心の中に、無意識のうちに膨らみつつある中、ハボックは更に問うてきたのだ。
「―――つかぬことをお伺いしますが。陛下、陛下の寵愛されているお妃様は、おいくつなんでしょうか?」
「彼女の年か?―――――――確か、もうすぐ16だと。そう言っていた筈だが…」
部下の質問に、書類に目を通しつつ、考え込んで出てきた答えが、それだった。
すると。
暫し、静寂が室内を包み込み。
「…おい、ハボック?」
ロイの答えを聞いても、何も言おうとしない部下を不審に思い、顔を上げてみると。
そこには、やや呆れ顔をした、部下が立ち尽くしていた。
「どうした?」
「陛下……。本当に宗旨変えしていたんですね。いや!それでもですよ、その年の差ははっきり言って犯罪です!そんなまだ子どものような少女を、後宮に入れて…しかも寵妃にするなんて!陛下と十以上も年が離れている、いたいけな少女に何てことを!いま少し成長してからでも良かったじゃないですか!」
バンッ、とロイの机を思い切り叩きつれ、ハボックは堰を切ったように主君を諌める言葉を次から次へと出してくる。
「お、おい、ハボック……」
明らかに誤解されている(そうさせたのも、偏に自分なのだが…)と、彼の言葉で分かったロイは、慌ててそれを解こうとしたのだが。
「大体、ホークアイ女官長も止めなかったんですか?後宮に入るのは幼い頃からでも、傍に召すのは成長してから…なんて配慮もなかったんですか?」
「だから…ハボック…」
矢継ぎ早にロイを責める言葉が飛び出してくるので、ロイは話すことができない。
「せっかく、後宮に足をお運びになられるようになったと喜んでいたら、その相手はいたいけな少女ですか?そんなことが外部に漏れでもしたら、いったいどんなことになるか…。陛下はお考えになったことはなかったのですか?」
「だから、私の話を先にちゃんと聞け!」
椅子から立ち上がり。
一方的に責められ続けた国王は、とうとう堪忍袋の緒が切れて。大声で目の前の部下に対して叫ぶことで、ようやく彼からの非難の声を止めることが出来たのだった。
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