この場所に連れて来られた時は。
もう、ここでしか生きる場所はないのだと思っていた。
自分には。
その時は、ここが、何を目的とした場所なのかはよく理解しているつもりだった。
それを覚悟の上で、入った筈なのに。
それなのに――――
(……いつかは、こうなる可能性を考えていなかったわけではないのだけれど…)
回廊を足取りも重く歩きつつ、エドワードは考えていた。
自分を先導する、リザの後姿をぼんやりと見つめながら。
丁度、夕食を終えた頃のことだった。
このまま、後は寝るだけだと思っていたところへ、突然女官長であるリザが現れて、エドワードにこう告げたのだ。
『―――陛下が、今宵あなたをお召しになりました。エディ、急ぎ、支度を始めなさい』
と。
(……どうしてオレが…?)
リザに言われた時、真っ先に浮かび上がってきたのは、その疑問だった。
自分は、このハレムに来てまだ日が浅い。
だから、このハレムの主である国王とやらにも会っていないから、今回のような状況になるのは、あるとしてもずっと先のことだろうと思い込んでいた。もしくは、こんなにたくさんの美しい女性がいるのだから、自分はものの数にも入っていないだろうとも。
それ故に、リザからの突然の呼び出しは、まさに寝耳に水、だったのだ。
(…オレなんか、相手にしたって…)
急遽風呂に入り、全身を丁寧に磨きこまれ、薄い純白の絹の夜着に着替えさせられたエドワードは、自分の身体を見下ろして思う。
(―――胸もぺったんこだし…全然女性としての魅力はない筈なのに…)
何故、自分を選んだのか。
その理由が、エドワードには分からなかった。
(…国王陛下の好みとは、まず間違いなく違うのに)
他の部屋に住まう、後宮の女性達を見ていれば、エドワードでも分かった。
この後宮の主である現国王は、成熟したスタイル抜群の女性が好みなのだと。
エドワード以外の女性達は、殆どそのような女性ばかりだった。だから、エドワードがよくこの後宮に入れたものだと、自身で疑問に思うのも無理はない。
明らかに自分は、国王の好みの範疇外の女なのだから。
それなのに――――
(……もしかして、たまには違ったものも食べてみたいってことなのかな?)
同じようなものばかり食べていると飽きるから、たまには違ったものでも……という単純な考えなのだろうか。
たとえそうだとしても、エドワードには拒否権などない。
ここでは、彼女の意向など、聞いてくれるわけがない。
自分は、既に国王のもの、なのだから。
彼の意思だけで、自分の命運などどうとでもなってしまう。
自分は、そんな弱い立場に今はあるのだから。
(……仕方…ない…)
これから起こることを、唯々諾々と受け入れるしかないことを。
とっくの昔に、覚悟していた筈だ。
この後宮に、入った時からずっと。
なのに――――
(…やっぱり…怖い…)
己の腕を、ギュッと抱き締める。
これから、自分の身に何が起こるのか、分からないくらい子供ではない。
この場所が、どういう目的のためにあるのかくらい、よく理解している。
そして、その目的のために今、自分が国王の許に向かおうとしていることも――――
だけど………
(顔も知らない男に…抱かれるなんて…)
正直、怖い。
自分は王女だから、いずれは誰かと結婚することになるのだろうという、漠然とした思いはあった。
だがそれが、こんなに突然やってくるとは……
(いや、結婚とは違うか…)
これは、正式な手続に則った、結婚というものではない。
国王の、後継を作るため。
また、国王の性欲処理のため。
その目的のための、対象にしか過ぎないのだから。
(……覚悟、していたのに…)
この場所で暮らす女には、それしか生きる術はないと。
この場に入った時から、覚悟していた筈なのに
なのに、さっきから震えが止まらない。
小刻みに震える身体を自分の腕で抱き締めつつ、回廊を歩いていたエドワードは、やがてその歩みを止めた。
前を歩くリザが、止まったために。
(ここは――――)
後宮に入ってから、一度も来た事のないエリアだった。
エドワードの住まう棟とは明らかに、広さや造りが違う。その豪奢な建物を暫し呆気に取られて眺めていたエドワードを、リザが呼んだ。
「…エディ、こちらへ」
「は、はい…!」
呼ばれ、彼女の後を追って入ったのは、その棟の一室。
四方の壁には、花や木をデザインした、豪華な模様がびっしりと描かれ、ふかふかの、緻密な織りが施された絨毯が床一面に敷かれたその広い部屋には。
(…でっかい寝台…)
部屋の最も奥の壁に据え付けられていたのは、装飾を施した豪奢な天蓋付きの寝台だった。その寝台だけでも、今エドワードが住まう部屋の広さくらいはあるだろう。
そして。
その寝台の脇に置かれてあるソファには。
切れ長の黒い瞳に、黒い髪。
年はもうすぐ三十になると聞いてはいたが、見た目はその年よりもずっと若く見える。
しかも、エドワードの目から見ても、なかなか端正な顔立ちで、穏やかそうな雰囲気に包まれていた。
「この御方が、国王陛下であらせられます。―――ご挨拶を」
「あ……」
エドワードは、ぼんやりと眺めていた顔を下げて、慌てて絨毯の上に跪き、挨拶をする。
「わ、私は、エディ、と申します…」
そうとしか、言いようがなかった。
今の自分には、王女の肩書きなど何の役にも立たないことくらい、分かっていた。
今は存在しない、国の王女など……。
ただの、エディだと。
そう名乗るしかなかった。
「……ではエディ、私はこれで下がります」
挨拶を終えたエドワードに対し、リザがそっと囁く。
その言葉を聞いたエドワードは、一瞬びくりと身体を震わせた。
とうとう、国王と二人きりになるのだと。
その瞬間がやってきたのだと、分かったために。
「――――あまり、緊張しなくてもいいのよ。陛下が、いいようになさってくださるから…」
エドワードの不安が伝わってきたのだろうか。
リザは優しく微笑み、エドワードの耳元でそう呟くと、励ますようにエドワードの肩に手を置いた。
「…それでは、陛下。後は……」
「分かっている」
低く、穏やかな声。
聞いていると落ち着けるような声も、今のエドワードにとっては不安を増すものでしかなかった。
「―――では、私はこれで…」
リザは再度一礼し、寝所から立ち去っていった。
後には。
床に跪いたままのエドワードと。
ソファに座っている国王のみが残され。
(…こ、これから…どうしたら…)
自分から動くことが出来ずにいたエドワードは、跪いたまま内心焦っていた。
国王の寝所に入ってからの行動は、一通り教わっていた筈なのに、挨拶をした途端に頭の中が真っ白になって、何も思い出せずにいた。
(えっ…えっと…確か挨拶が終わったら…陛下の指示があるまでその場にいて……それから…それからっ…)
頭を下げたまま、懸命に思い出そうと半ばパニック状態になっているエドワードの頭上が、少し陰ったような……気がした。
――――そして。
(えっ……)
室内を包む香りが、ゆらりと動き、エドワードの鼻腔をくすぐるやいなや。
影の主が、エドワードの傍らに近づき、跪いたのだった。
「―――エディ、だったね」
この国の国王であり。
また、この後宮の支配者でもある。
ロイ・マスタングが、エドワードのすぐ傍に膝をつき、絨毯の上に置かれたままのエドワードの華奢な手を取ったのだ。
「あ………」
大きな温かい手に包み込まれ、自然とエドワードは顔を上げる。
すると彼女のすぐ目の前には、先刻見た時と同様の、優しい笑みを浮かべたロイの顔があった。
「………」
その微笑をぼんやりと見つめていたエドワードに向かって、ロイは再度口を開く。
「―――エディ…いや、本当の名は、エドワード・エルリック、だな。エルリック王国の王女殿下であらせられる」
「なっ……!」
ロイの口から突然出てきた、自分の素性を聞いた瞬間。
驚きの余り、黄金の瞳を見開き。
エドワードは咄嗟に、ロイの手に包まれた己の手を離そうとした。
だがそれも、ロイの力強い力によって阻まれてしまう。
(…この人は、オレが誰かを知っている!)
自分が、亡国の王女だと承知の上で、今宵の相手に指名してきたのだ。
(一体…何が目的で…?)
単なる、夜の相手として呼んだのか?
それとも、もっと別の目的が…?
様々な考えがエドワードの脳裏を巡り、彼女は混乱していた。
更に、今彼女の置かれている状況が、混乱に拍車をかけてしまい、自分を拘束するロイの腕の中から逃れようと、暴れる。
だが、成人した男の腕力には、到底勝てる筈もなく。
「い…嫌だっ…離して…!」
首を横に振り、抵抗の意を示すしかない己の非力さを悔やみ、瞳には涙が浮かぶ。
(―――オレには…何も出来ない…!)
所詮、滅ぼされた国の王女。
今は、何の力もない。
だから、こんな場で抵抗しても、どうにもならないことくらい、分かっていた筈なのに……。
無理矢理心を押し隠して、覚悟した筈なのに……。
「……やっぱり…嫌…だ…」
小さな声で呟く。
怖い。
心細い。
遠く異国の、この後宮という場所は。
自分にとっては、ただの牢獄だ。
「……帰りたい…」
ぽつりと、本音が漏れる。
(帰りたい…帰りたい…!)
自分の生まれ育った、故郷へ。
この国のように、煌びやかなものなど、何一つないけれど。
自然は豊かで、穏やかな国。
エルリック王国へ―――自分達の家族の許へ、帰りたかった。
「―――帰りたい…!」
涙ぐみ。
決して叶わぬ願いを、それでも、小さな声で呟いた時のことだった。
「――――帰してあげるよ」
エドワードの頭上から、穏やかな声が降りかかってくる。
その声の主は、今、エドワードの両腕を掴んでいて。
そして――――
「……帰してくれる?」
ゆるゆると顔を上げ、エドワードは、自分の目の前にいる人物に視線を向ける。
そこには。
優しく微笑んだ、黒い瞳の男が、いた。
エドワードと同じ目線になって、少女を見つめている。
(……普通、国王がこんな真似をすることはないのでは…)
大国の国王が、後宮の女性と同じ位置に、しかも絨毯の上に座ることなど、まずありえない。
国王は常に、上段に位置し、指示する立場にあるのだから。
なのに今は――――
「…もっ、申し訳ありません!」
エドワードは、慌てて謝罪する。
自分の主である国王に、このように跪かせるということは、とてつもなく無礼なことなのだと気付いたから。
起きてしまったことを、今更謝ってもどうなることもないが、とにかく謝るしかなかった。
しかし。
「―――謝ることはないよ」
ギュッと目を閉じ、俯いているエドワードの頭上に、優しい声が聞こえてくる。
「…怖がらないで。顔を上げてくれないか、エドワード王女殿下」
国王にそう言われ、エドワードは瞳を開き、おずおずと顔を上げると。
彼女の前には、先程と変わらぬ優しい笑顔を向けている、ロイの姿があった。
「…君は、エルリック王国の王女だ。いわば私と同等なのだから、遠慮することはない」
「で、でも……」
大国の国王と、亡国の王女を同列に扱うなど、考えられない。
しかしロイは、エドワードの思いを悟ったのか、すぐに笑って言葉を告ぐ。
「私が、そう思っているのだから、気にしなくていい」
「は…はぁ……」
呆然として答えると、ロイはエドワードを掴んでいた手を緩め、そのまま彼女の手を取ってソファへと導く。エドワードはそれに応じて、おずおずとソファに座った。
―――ロイの、隣へと。
「何か、飲みたい物があれば、遠慮せず取りなさい。お腹が空いているなら、果物でも…」
ソファの前にある低いテーブルには、水晶で出来た杯や、黄金のポット、宝石をふんだんに散りばめたカップが置かれていた。また、黄金の鉢には、エドワードが見たこともないような、美味しそうな色とりどりの果物が並べられている。
それを見ただけでも、この国の国王の力というものが窺い知れた。
(オレの国じゃ、宝物扱いされそうなものばっかり…)
それを、無雑作に使っている。それだけで、国力の差というものが測れた。
「……さっき、夕食を食べたばかりだから…今は…」
「そうか?ここでは、遠慮は必要ないぞ。暫く暮らすことになるのだから…」
「えっ……でも、さっき…」
つい先刻、ロイはエドワードに、『国へ帰してやる』と言ってくれた筈だ。
なのに、暫く後宮で暮らすとは、一体……?
「―――私としては、すぐにでも君を、エルリック国王…父君の所へ帰してやりたいのだが…」
エドワードの考えていることが分かったのか、ロイは苦笑を浮かべて口を開く。
「変な噂が、伝わってきてね…」
「うわ…さ…?」
「そう。今回のアメストリス帝国のエルリック王国への侵攻の目的は、君を…エルリック王国の王女を手に入れるためだと」
「オレ……?」
ロイの口から出てきた内容に、エドワードは驚く。
「アメストリス帝国皇帝から、君に求婚があったことは?」
「知っているけど……悪い冗談だと…。それに親父が即刻断ったから…」
「だから、アメストリス帝国は、君の国に攻め込んだのだ。君を手に入れるために。――――という噂が、まことしやかに我が国にも伝わってきている。そんな噂が蔓延している中、君を家族の許に帰すのは危険だと思ってね…」
「………」
エドワードには、何も言い返せなかった。
確かに、ロイの言うとおりだろう。
今、自分が家族と合流したら、それを知ったアメストリス帝国は、家族の亡命先である隣国へと攻め込んでくるかもしれないのだ。果たして本当に、エドワードが目的なのかはっきりしない今は、無闇に動かない方が得策だ。アメストリス帝国の目的が分かり、それが自分でないとはっきりした時点で戻れば、いらぬ不安要素を抱えずに済む。
「―――幸い、君が王女だと知っているのは、この国では私とホークアイ女官長だけだ。この後宮にいれば、外部に秘密が漏れる危険性はかなり減るだろう。君にはすまないが、もう少しここで暮らしてもらうことになるよ。…私の寵妃としてね」
「ち、寵妃って……!」
「ああ、心配することはない。あくまで表面上だ。寵妃になれば、今よりもさらに奥の棟で暮らすことになる。ここに暮らす他の女性達の目からも離れることになるから、好都合だろう?」
極力、秘密は漏れないよう、用心に用心を重ねるにこしたことはない。
「だから君を、今夜ここに召した。寵妃にするためにね」
「あ………」
ようやくエドワードは、自分が召された理由が分かった。
国王に召されなければ、寵妃として扱うことも出来ない。そんな配慮から、今夜のことが仕組まれたのだ。
「……勿論、君に触れるような真似はしないと誓おう。私は、あのアメストリス帝国の皇帝とは違うからね」
と言って、ロイはゆっくりと立ち上がった。
「今夜は、この棟から出ることが出来ないから、私は隣室に移るが、君はここを使って休むといい。明日には、君の部屋を用意しておこう。家族の許に帰るまでは、そこでのんびり過ごすといい」
そう言い置いて、ロイはエドワードに笑いかけ、寝所から出て行った。
目まぐるしく起こった、今宵の出来事に。
未だ呆気にとられて、ソファに座り込んでいるエドワードを残して。
「……ど、どうなっているんだ?」
その夜。
ふかふかの豪奢なベッドを一人で使うことを許されたエドワードではあったが。
いろいろと考え込んで、結局一睡も出来なかった。
そして、翌日からは。
マスタング王国、現国王の寵妃としての生活が始まったのだった。
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