rosa damascena 3

 この場所に連れて来られた時は。
 もう、ここでしか生きる場所はないのだと思っていた。
 自分には。
 その時は、ここが、何を目的とした場所なのかはよく理解しているつもりだった。
 それを覚悟の上で、入った筈なのに。
 それなのに――――

(……いつかは、こうなる可能性を考えていなかったわけではないのだけれど…)

 回廊を足取りも重く歩きつつ、エドワードは考えていた。
 自分を先導する、リザの後姿をぼんやりと見つめながら。

 丁度、夕食を終えた頃のことだった。
 このまま、後は寝るだけだと思っていたところへ、突然女官長であるリザが現れて、エドワードにこう告げたのだ。

『―――陛下が、今宵あなたをお召しになりました。エディ、急ぎ、支度を始めなさい』
と。

(……どうしてオレが…?)
 リザに言われた時、真っ先に浮かび上がってきたのは、その疑問だった。
 自分は、このハレムに来てまだ日が浅い。
 だから、このハレムの主である国王とやらにも会っていないから、今回のような状況になるのは、あるとしてもずっと先のことだろうと思い込んでいた。もしくは、こんなにたくさんの美しい女性がいるのだから、自分はものの数にも入っていないだろうとも。
 それ故に、リザからの突然の呼び出しは、まさに寝耳に水、だったのだ。
(…オレなんか、相手にしたって…)
 急遽風呂に入り、全身を丁寧に磨きこまれ、薄い純白の絹の夜着に着替えさせられたエドワードは、自分の身体を見下ろして思う。
(―――胸もぺったんこだし…全然女性としての魅力はない筈なのに…)
 何故、自分を選んだのか。
 その理由が、エドワードには分からなかった。
(…国王陛下の好みとは、まず間違いなく違うのに)
 他の部屋に住まう、後宮の女性達を見ていれば、エドワードでも分かった。
 この後宮の主である現国王は、成熟したスタイル抜群の女性が好みなのだと。
 エドワード以外の女性達は、殆どそのような女性ばかりだった。だから、エドワードがよくこの後宮に入れたものだと、自身で疑問に思うのも無理はない。
 明らかに自分は、国王の好みの範疇外の女なのだから。
 それなのに――――
(……もしかして、たまには違ったものも食べてみたいってことなのかな?)
 同じようなものばかり食べていると飽きるから、たまには違ったものでも……という単純な考えなのだろうか。
 たとえそうだとしても、エドワードには拒否権などない。
 ここでは、彼女の意向など、聞いてくれるわけがない。
 自分は、既に国王のもの、なのだから。
 彼の意思だけで、自分の命運などどうとでもなってしまう。
 自分は、そんな弱い立場に今はあるのだから。
(……仕方…ない…)
 これから起こることを、唯々諾々と受け入れるしかないことを。
 とっくの昔に、覚悟していた筈だ。
 この後宮に、入った時からずっと。
 なのに――――

(…やっぱり…怖い…)

 己の腕を、ギュッと抱き締める。
 これから、自分の身に何が起こるのか、分からないくらい子供ではない。
 この場所が、どういう目的のためにあるのかくらい、よく理解している。
 そして、その目的のために今、自分が国王の許に向かおうとしていることも――――
 だけど………
(顔も知らない男に…抱かれるなんて…)
 正直、怖い。
 自分は王女だから、いずれは誰かと結婚することになるのだろうという、漠然とした思いはあった。
 だがそれが、こんなに突然やってくるとは……
(いや、結婚とは違うか…)
 これは、正式な手続に則った、結婚というものではない。
 国王の、後継を作るため。
 また、国王の性欲処理のため。
 その目的のための、対象にしか過ぎないのだから。
(……覚悟、していたのに…)
 この場所で暮らす女には、それしか生きる術はないと。
 この場に入った時から、覚悟していた筈なのに

 なのに、さっきから震えが止まらない。
 小刻みに震える身体を自分の腕で抱き締めつつ、回廊を歩いていたエドワードは、やがてその歩みを止めた。
 前を歩くリザが、止まったために。
(ここは――――)
 後宮に入ってから、一度も来た事のないエリアだった。
 エドワードの住まう棟とは明らかに、広さや造りが違う。その豪奢な建物を暫し呆気に取られて眺めていたエドワードを、リザが呼んだ。
「…エディ、こちらへ」
「は、はい…!」
 呼ばれ、彼女の後を追って入ったのは、その棟の一室。
 四方の壁には、花や木をデザインした、豪華な模様がびっしりと描かれ、ふかふかの、緻密な織りが施された絨毯が床一面に敷かれたその広い部屋には。
(…でっかい寝台…)
 部屋の最も奥の壁に据え付けられていたのは、装飾を施した豪奢な天蓋付きの寝台だった。その寝台だけでも、今エドワードが住まう部屋の広さくらいはあるだろう。
 そして。
 その寝台の脇に置かれてあるソファには。

 切れ長の黒い瞳に、黒い髪。
 年はもうすぐ三十になると聞いてはいたが、見た目はその年よりもずっと若く見える。
 しかも、エドワードの目から見ても、なかなか端正な顔立ちで、穏やかそうな雰囲気に包まれていた。
「この御方が、国王陛下であらせられます。―――ご挨拶を」
「あ……」
 エドワードは、ぼんやりと眺めていた顔を下げて、慌てて絨毯の上に跪き、挨拶をする。
「わ、私は、エディ、と申します…」
 そうとしか、言いようがなかった。
 今の自分には、王女の肩書きなど何の役にも立たないことくらい、分かっていた。
 今は存在しない、国の王女など……。
 ただの、エディだと。
 そう名乗るしかなかった。
「……ではエディ、私はこれで下がります」
 挨拶を終えたエドワードに対し、リザがそっと囁く。
 その言葉を聞いたエドワードは、一瞬びくりと身体を震わせた。
 とうとう、国王と二人きりになるのだと。
 その瞬間がやってきたのだと、分かったために。

「――――あまり、緊張しなくてもいいのよ。陛下が、いいようになさってくださるから…」

 エドワードの不安が伝わってきたのだろうか。
 リザは優しく微笑み、エドワードの耳元でそう呟くと、励ますようにエドワードの肩に手を置いた。
「…それでは、陛下。後は……」
「分かっている」
 低く、穏やかな声。
 聞いていると落ち着けるような声も、今のエドワードにとっては不安を増すものでしかなかった。
「―――では、私はこれで…」
 リザは再度一礼し、寝所から立ち去っていった。

 後には。
 床に跪いたままのエドワードと。
 ソファに座っている国王のみが残され。
(…こ、これから…どうしたら…)
 自分から動くことが出来ずにいたエドワードは、跪いたまま内心焦っていた。
 国王の寝所に入ってからの行動は、一通り教わっていた筈なのに、挨拶をした途端に頭の中が真っ白になって、何も思い出せずにいた。
(えっ…えっと…確か挨拶が終わったら…陛下の指示があるまでその場にいて……それから…それからっ…)
 頭を下げたまま、懸命に思い出そうと半ばパニック状態になっているエドワードの頭上が、少し陰ったような……気がした。

 ――――そして。

(えっ……)
 室内を包む香りが、ゆらりと動き、エドワードの鼻腔をくすぐるやいなや。
 影の主が、エドワードの傍らに近づき、跪いたのだった。

「―――エディ、だったね」
 この国の国王であり。
 また、この後宮の支配者でもある。
 ロイ・マスタングが、エドワードのすぐ傍に膝をつき、絨毯の上に置かれたままのエドワードの華奢な手を取ったのだ。
「あ………」
 大きな温かい手に包み込まれ、自然とエドワードは顔を上げる。
 すると彼女のすぐ目の前には、先刻見た時と同様の、優しい笑みを浮かべたロイの顔があった。
「………」
 その微笑をぼんやりと見つめていたエドワードに向かって、ロイは再度口を開く。

「―――エディ…いや、本当の名は、エドワード・エルリック、だな。エルリック王国の王女殿下であらせられる」
「なっ……!」
 ロイの口から突然出てきた、自分の素性を聞いた瞬間。
 驚きの余り、黄金の瞳を見開き。
 エドワードは咄嗟に、ロイの手に包まれた己の手を離そうとした。
 だがそれも、ロイの力強い力によって阻まれてしまう。
(…この人は、オレが誰かを知っている!)
 自分が、亡国の王女だと承知の上で、今宵の相手に指名してきたのだ。
(一体…何が目的で…?)
 単なる、夜の相手として呼んだのか?
 それとも、もっと別の目的が…?
 様々な考えがエドワードの脳裏を巡り、彼女は混乱していた。
 更に、今彼女の置かれている状況が、混乱に拍車をかけてしまい、自分を拘束するロイの腕の中から逃れようと、暴れる。
 だが、成人した男の腕力には、到底勝てる筈もなく。
「い…嫌だっ…離して…!」
 首を横に振り、抵抗の意を示すしかない己の非力さを悔やみ、瞳には涙が浮かぶ。
(―――オレには…何も出来ない…!)
 所詮、滅ぼされた国の王女。
 今は、何の力もない。
 だから、こんな場で抵抗しても、どうにもならないことくらい、分かっていた筈なのに……。
 無理矢理心を押し隠して、覚悟した筈なのに……。
「……やっぱり…嫌…だ…」
 小さな声で呟く。
 怖い。
 心細い。
 遠く異国の、この後宮という場所は。
 自分にとっては、ただの牢獄だ。
「……帰りたい…」
 ぽつりと、本音が漏れる。
(帰りたい…帰りたい…!)
 自分の生まれ育った、故郷へ。
 この国のように、煌びやかなものなど、何一つないけれど。
 自然は豊かで、穏やかな国。
 エルリック王国へ―――自分達の家族の許へ、帰りたかった。
「―――帰りたい…!」
 涙ぐみ。
 決して叶わぬ願いを、それでも、小さな声で呟いた時のことだった。

「――――帰してあげるよ」
 エドワードの頭上から、穏やかな声が降りかかってくる。
 その声の主は、今、エドワードの両腕を掴んでいて。
 そして――――


「……帰してくれる?」
 ゆるゆると顔を上げ、エドワードは、自分の目の前にいる人物に視線を向ける。
 そこには。
 優しく微笑んだ、黒い瞳の男が、いた。
 エドワードと同じ目線になって、少女を見つめている。
(……普通、国王がこんな真似をすることはないのでは…)
 大国の国王が、後宮の女性と同じ位置に、しかも絨毯の上に座ることなど、まずありえない。
 国王は常に、上段に位置し、指示する立場にあるのだから。
 なのに今は――――
「…もっ、申し訳ありません!」
 エドワードは、慌てて謝罪する。
 自分の主である国王に、このように跪かせるということは、とてつもなく無礼なことなのだと気付いたから。
 起きてしまったことを、今更謝ってもどうなることもないが、とにかく謝るしかなかった。


 しかし。
「―――謝ることはないよ」
 ギュッと目を閉じ、俯いているエドワードの頭上に、優しい声が聞こえてくる。
「…怖がらないで。顔を上げてくれないか、エドワード王女殿下」
 国王にそう言われ、エドワードは瞳を開き、おずおずと顔を上げると。
 彼女の前には、先程と変わらぬ優しい笑顔を向けている、ロイの姿があった。
「…君は、エルリック王国の王女だ。いわば私と同等なのだから、遠慮することはない」
「で、でも……」
 大国の国王と、亡国の王女を同列に扱うなど、考えられない。
 しかしロイは、エドワードの思いを悟ったのか、すぐに笑って言葉を告ぐ。
「私が、そう思っているのだから、気にしなくていい」
「は…はぁ……」
 呆然として答えると、ロイはエドワードを掴んでいた手を緩め、そのまま彼女の手を取ってソファへと導く。エドワードはそれに応じて、おずおずとソファに座った。
 ―――ロイの、隣へと。
「何か、飲みたい物があれば、遠慮せず取りなさい。お腹が空いているなら、果物でも…」
 ソファの前にある低いテーブルには、水晶で出来た杯や、黄金のポット、宝石をふんだんに散りばめたカップが置かれていた。また、黄金の鉢には、エドワードが見たこともないような、美味しそうな色とりどりの果物が並べられている。
 それを見ただけでも、この国の国王の力というものが窺い知れた。
(オレの国じゃ、宝物扱いされそうなものばっかり…)
 それを、無雑作に使っている。それだけで、国力の差というものが測れた。
「……さっき、夕食を食べたばかりだから…今は…」
「そうか?ここでは、遠慮は必要ないぞ。暫く暮らすことになるのだから…」
「えっ……でも、さっき…」
つい先刻、ロイはエドワードに、『国へ帰してやる』と言ってくれた筈だ。
 なのに、暫く後宮で暮らすとは、一体……?
「―――私としては、すぐにでも君を、エルリック国王…父君の所へ帰してやりたいのだが…」
 エドワードの考えていることが分かったのか、ロイは苦笑を浮かべて口を開く。
「変な噂が、伝わってきてね…」
「うわ…さ…?」
「そう。今回のアメストリス帝国のエルリック王国への侵攻の目的は、君を…エルリック王国の王女を手に入れるためだと」
「オレ……?」
 ロイの口から出てきた内容に、エドワードは驚く。
「アメストリス帝国皇帝から、君に求婚があったことは?」
「知っているけど……悪い冗談だと…。それに親父が即刻断ったから…」
「だから、アメストリス帝国は、君の国に攻め込んだのだ。君を手に入れるために。――――という噂が、まことしやかに我が国にも伝わってきている。そんな噂が蔓延している中、君を家族の許に帰すのは危険だと思ってね…」
「………」
 エドワードには、何も言い返せなかった。
 確かに、ロイの言うとおりだろう。
 今、自分が家族と合流したら、それを知ったアメストリス帝国は、家族の亡命先である隣国へと攻め込んでくるかもしれないのだ。果たして本当に、エドワードが目的なのかはっきりしない今は、無闇に動かない方が得策だ。アメストリス帝国の目的が分かり、それが自分でないとはっきりした時点で戻れば、いらぬ不安要素を抱えずに済む。
「―――幸い、君が王女だと知っているのは、この国では私とホークアイ女官長だけだ。この後宮にいれば、外部に秘密が漏れる危険性はかなり減るだろう。君にはすまないが、もう少しここで暮らしてもらうことになるよ。…私の寵妃としてね」
「ち、寵妃って……!」
「ああ、心配することはない。あくまで表面上だ。寵妃になれば、今よりもさらに奥の棟で暮らすことになる。ここに暮らす他の女性達の目からも離れることになるから、好都合だろう?」
 極力、秘密は漏れないよう、用心に用心を重ねるにこしたことはない。
「だから君を、今夜ここに召した。寵妃にするためにね」
「あ………」
 ようやくエドワードは、自分が召された理由が分かった。
 国王に召されなければ、寵妃として扱うことも出来ない。そんな配慮から、今夜のことが仕組まれたのだ。
「……勿論、君に触れるような真似はしないと誓おう。私は、あのアメストリス帝国の皇帝とは違うからね」
 と言って、ロイはゆっくりと立ち上がった。
「今夜は、この棟から出ることが出来ないから、私は隣室に移るが、君はここを使って休むといい。明日には、君の部屋を用意しておこう。家族の許に帰るまでは、そこでのんびり過ごすといい」
 そう言い置いて、ロイはエドワードに笑いかけ、寝所から出て行った。

 目まぐるしく起こった、今宵の出来事に。
 未だ呆気にとられて、ソファに座り込んでいるエドワードを残して。

「……ど、どうなっているんだ?」

 その夜。
 ふかふかの豪奢なベッドを一人で使うことを許されたエドワードではあったが。
 いろいろと考え込んで、結局一睡も出来なかった。



 そして、翌日からは。
 マスタング王国、現国王の寵妃としての生活が始まったのだった。