rosa damascena 2

「はい、これが追加の書類です」
 言うやいなや、机上には束となった書類が積み重ねられる。
 それを見た、この国の最高権力者は、途端にげんなりとした表情となった。
「……そんな顔しても、無駄ですって。御前会議が始まるまでに、全て目を通しておいてくださいね」
 一応主筋に当たる、目の前の王に対し、ぞんざいな口調でハボックは釘を指した。
「―――ハボック」
「何でしょうか、陛下?」
「何のために私は、配下に宰相をつけたと思っている?」
「陛下お一人では、この国の政が回らないから、でしょう?」
「だったら……!」
「彼等宰相達にも、山のような仕事が回されています。それを除いた、どうしても陛下に裁決していただきたいものばかりが、ここに回されてくるんですよ」
 と、ハボックは、懇切丁寧に説明する。そうでもしないと、この目の前の主君は、何とかして自分の仕事をサボろうと考え、それを行動に移してしまうからだ。
「―――おまえも、宰相の一人だろう?何とかならないのか?」
「無理です」
 なおもあがいている主君を、ハボックは一刀両断にする。
「オレにも、自室に戻れば山のような仕事が待っています。…それにほら、先日起こったアメストリス帝国のエルリック王国侵攻によって、更に仕事が増えてますから、さっさと諦めて、これを処理してください。ロイ・マスタング陛下」
 フルネーム付きで、最後通牒を言い渡されたこの国―――――マスタング王国の現国王であるロイ・マスタングは、書類の山で埋もれかかっている机に突っ伏していた顔を、ゆるゆると上げてハボックを見上げる。
「アメストリス帝国、か…。解せんな…」
 書類から目を離してぽつりと呟きつつも、手にはペンを持っているところを見ると、己の仕事を放棄する気はないようだ。
「―――何が、解せないと?」
「エルリック王国を攻めたことだ。あの国は…攻めて占領しても、これといって旨味はない国だぞ、はっきり言って」
「確かに、その通りですが…」
 ハボックもロイの考えに同感だ。
「特に放って置いても危険のない、のんびりとした小国ですからねぇ…」
「なのに、敢えてあの国を狙って攻め込んだ。この事実の裏には、何かがあると思わないか?」
「例えば…別の国に攻め込むための布石とか、ですか?」
「考えられないこともないが……一度、探りを入れてみてもいいかもしれないな…」
「そうかと思いまして、その許可に関する書類も置いてあります。ちゃんと目を通して、裁決してくださいね」
「――――抜かりがないことは、良いことだが…」
 話題が、目の前の書類の束に引き戻されてしまったロイは、深い溜息をついてから、のろのろと書類を自分の手元に引き寄せて、読み始める。
(…全く、やる気が起きれば、こんな書類くらい訳ないのに…)
 その、己の主君のやる気のなさそうな姿を見ていたハボックは、心の中でぼやいた。
 元々、それだけの優れた能力を持っていることを、ずっと傍近くで仕えているハボックは知っている。だからこそ、情け容赦なく大量の仕事を持ち込んでいるのだ。
「それではオレも、自分の仕事に戻りますんで。あっ、御前会議は定刻通り始めますんで、遅れないようにしてくださいよ」
「―――――分かった」
ロイは、気乗りなさそうな口調で答える。
 そんな様子を見ても、ハボックは別段心配していなかった。
 どんなに普段サボり魔でも、やる時はやる人間だということを、良く知っているから。
(――――でなきゃ、この国を纏め上げることなんて出来やしないからな…)
 そう思いつつ、執務室から出ようとした時。
「……ああ、そうでした。伝言を、忘れるところでした」
 気づき、再度ロイの方を振り向く。
「何だ?まだ何か、あるのか?」
「いや…。ホークアイ女官長から、伝言を頼まれまして」
「ホークアイからか?」
 その名を聞いたロイは、書類から顔を上げて扉の傍に立っているハボックの顔を見る。
「―――余り、内と外が接近するのは感心しないが…」
「何言ってるんですか?陛下が内と外で、綿密に連携しないといけないと言ったくせに…」
「…そんなこと、言ったかな?まあいい。ホークアイの伝言とは?」
「はいはい」
 自分が忘れていたことを棚に上げての言い種に、ハボックは呆れたように肩をすくめつつも答える。
「『お仕事で忙しいでしょうが、たまには奥へも足をお運びください。お知らせしたいこともございますので』、だそうですよ。確かに伝えましたからね」
「知らせたいこと……?それは一体なんだ?」
「さあ。オレもそこまでは聞いてませんから…。奥に行ったら、分かるんじゃないんですか?」
「―――――そう、だな…」
 ハボックの伝言が気になりつつも、ロイは再び書類に視線を向けた。
 とりあえずこれを済まさなければ、奥へも行けないので。





 ロイがその日の執務を何とか終えることが出来、ハレム―――『禁断の場所』という意味を持つ、いわゆる『後宮』へと足を踏み入れたのは、かなり夜も更けた頃となってしまった。

「…こちらに足を運ぶのも、久しぶりだな」
 と呟きつつ、内廷で唯一、後宮へと繋がる道を歩きつつ、ぽつりと呟く。
 この道を通ることが許されているのは、男性では国王のみだ。
 ハレムに入ることが出来る男性は、国王だけ。国王の息子―――すなわち王子達も、幼少の頃は母親である妃と共に後宮で暮らすことは可能だが、それはあくまでも、成人するまでの子供の頃だけだ。大人になれば、例え国王の息子といえども、ハレムから出て行かなければならないという、厳しい掟が建国以降ずっと存在している。
 ロイ自身、十五歳で成人の儀式を終えた後は、速やかにハレムから出て行った。
 その後、再びハレムに入れたのは、自身が国王となり、即位した後。先代の王である父が亡くなり、新たにロイ自身の後宮が出来てからのことだった。
 だが、そのハレムにも、ロイは即位後指折り数えるくらいしか訪れていない。
 即位直後から続く、国王としての務めの多さに忙殺されて、後宮にまで行く余裕がないというのが、二つある理由のうちの一つ。
 そして、もう一つは――――

「…いくら、この国建国以来の、王家のしきたりとはいえ…好きにはなれないな…」
 一人、道を歩きつつぼやく。
 好きにはなれない。
 苦手だと思っているのは、今、自分が向かおうとしているハレムそのものだった。
 国王のために集められた美女達が、その寵愛を獲得するために妍を競う、女性のみが住まう空間。
 ロイは、その場所が苦手だった。
 それは、彼自身女性が苦手だからということではなく(むしろ、好きな方だと自覚はしている。)、その、国王のためだけに存在する、女達だけの空間というものが苦手なのだ。
 生まれてから、成人するまでの間暮らしていた場所。
 そこで繰り広げられる、ただ一人の男である国王の寵愛を巡っての、女性達の嫉妬も露な駆け引きや競争をずっと見続けてきた。
 ロイを産んだ母も、彼を産み、国母となるまでは、他の女性達からの風当たりが相当強かったらしい。
 ハレムの女性達は、いかに寵愛が深くとも、国王の子を産まなければ、後宮でのはっきりとした地位を得ることは難しいのだ。
 中には、一度も国王の寝所を訪なうことなく、ハレムを去ったという女性もいるだろう。
 そんな、集められた女性達の実態を目の当たりにし、話を幼い頃から聞いてきただけに、ロイはこの後宮の存在が苦手だった。
 こっそりお忍びで街に出れば、軽い気持ちで付き合ってくれる女性の存在には事欠かないので、敢えて後宮の存在は必要なかったのだ。
「…跡取りは、必要なのだろうが…」
 そのために、あれだけの女性達を閉じ込めておく必要はない。
 国同士の政略結婚は、相手国の思惑が絡むので出来れば避けたい。そのために後宮が生まれたのだろうが、あれ程多数の女性達を閉じ込めておかなくてもいい筈だ。
 国王の権威を知らしめるためであれば、もっと別の方法もあるだろう。
 そのような、自分を取り巻く状況や、様々な考えが入り混じっていたために、ロイは即位後余りハレムに近づくことはなかった。
 出来れば、自分の代でいろいろと改革をしておきたいとも考えていた。
 だから、訪問には余り乗り気でなかった後宮だが、今夜はどうしても行かなくてはならないだろう。
(―――何せ、女官長直々の、依頼だからな…)
 と、思いつつ、怜悧な美貌の女官長の顔を、脳裏に思い浮かべた。

 リザ・ホークアイ女官長。
 その、怜悧な美貌の主こそ、珍しい経歴の持ち主であるだろう。
 彼女はロイの父、すなわち先代の国王のハレムに入った女性だった。
 彼女が入った時、既に父王は高齢で、彼女との年齢差は父と娘くらい離れていたのだったが、その美貌と知性の高さから、入ってすぐに彼女を寵愛するようになった。
 その時には既に、ただ一人の王子であるロイが、後継者と指名されていたし、リザ自身も、寵妃となってからも驕ることなく、国母であるロイの母親を常に立てていたために、ハレム内にいらぬ波風は立たなかった。
 その後間もなく、前王は逝去し、ロイが新国王に就いた時。
 リザから、思いがけない申し出を聞くこととなったのだ。
 国王が亡くなると、当然のことながら、そのハレムに住まう女性達はハレムから出ることを余儀なくされてしまう。
 次の国王のハレムを、新たに作らなければならないからだ。
 なおもハレムにいられるのは、国母である新国王の母のみ。
 他の女性達は、その地位に応じての持参金をつけられて、ハレムの外に出されてしまうのだ。
 だから当然、リザもそうなってしまうのだと思っていたのだが――――


 彼女は、ロイの母を通じて、彼にこう願い出たのだ。

「私を一女官として、今後もハレムにいさせてほしいのです」
と。

 その申し出は、ロイを驚かせた。
 先王の寵愛深い彼女には、相応の屋敷と一生暮らせるだけの持参金や宝石を与える予定だった。
 しかし彼女は、それを蹴ってまでハレムに残ることを望んだのだ。
 しかも、後宮を取り仕切る女官として。
 その理由をロイの母親が質したところ、彼女は、
「この年でもう、隠居生活には入りたくないだけです」
と、きっぱり言い切った。
 彼女の主張は尤もだ。
 リザはまだ二十代だし、しかも賢い。
 先王の妃であった頃も、その寵愛に驕れることなく、他の女性達との和に努めていた。
 そんな彼女が、女官としてハレムを取り仕切ってくれたら確かにいらぬ波風は立たないだろうと思い、ロイは例外中の例外であるリザの要望を聞き入れたのだ。
 そして、その決断は正しかったのだと、程なくロイは知ることとなる。
 女官としてのリザの能力は素晴らしく、ハレムでの様々な問題を解決し、いつしか女官達を束ねていく存在となっていた。ロイの妃となる女性達にも不思議と慕われ、何くれとなく相談に乗って、手助けをしているようだ。
 そんな彼女の実績を評価したロイは、程なくリザを女官長に任命し、彼のハレムを全面的に任せていた。
「―――その、女官長が、今夜必ずここに来て欲しいとは…」
 一体、何の用があるのだろうと思う。
 勿論、後宮に向かうのだから、そこでの用は限られる。
 だが、そのためだけに彼を呼びつけたのではないのだと言うことは、分かっていた。
 リザが、自分を呼んだのには、何か訳があるのだと。
 そんな確信が、ロイにはあった。
 だから、余り来たくない場所に、渋々ながらもやってきたのだ。
「……願わくば、お小言でなければよいのだが…」
と、ぽつりとぼやきつつ、ロイは後宮の入口の前に立った。


「―――ようこそ、お越しくださいました、陛下」
 入口の前に立つと、その扉がゆっくりと開き、中から姿を現したのは、ブルーの長衣を身に纏い、同系色の薄いヴェールを頭から被った美女だった。
 その女性は、恭しく頭を下げてロイを迎え入れる。
「…出迎えご苦労、ホークアイ女官長」
 扉が開かれた途端に、彼女の背後から、甘い香りが漂ってくる。
 それは、ここに住まう女性達が好んで使っている香だと、ロイにはすぐに分かった。
「今は、薔薇の香が流行っているのか?」
「そうですね。この国にはない種のものですから、物珍しいのでしょう」
 リザはそうあっさり答えて、ロイを先導する。
「……それで、今日私を呼んだのは、どういった用向きからかな?」
 入口から続く回廊沿いに、リザの後をゆっくりとついて歩きながらロイは問いかける。この辺りはまだ、女達の居住区ではないので、聞かれる心配はないのだと安心しつつ尋ねたのだが。
「その件につきましては…」
と答えただけで、後は誤魔化す。
(この場では、話したくないということか…)
 ロイは軽く溜息をついて、それ以上問いただすことは止めた。
(…これはいよいよ、小言かもしれないな)
と、思いつつ。
(―――さしずめその内容は、こちらへ滅多に足を運ばないことへの苦情かな?)
 そうとしか、考えられないだろう。
 この、国王の後宮を預かる女官長直々の、要請とあっては。
 世継ぎをつくらねばならない、その責を担っている国王が、後宮へと足を運ばないのは、国の存亡に関わる重大事だ。
 ロイ自身は然程大事には思っていないのだが、後宮を取り仕切るリザから見れば、そのことは最大の心配事となっているに違いない。
 それが分かっていながら、ロイは敢えて後宮に来なかった。故に、業を煮やしたこの女官長は、とうとう我慢出来なくなって国王を呼びつけたのだろう。
 それが出来るのは、ここではリザ唯一人だけだ。
 母后であるロイの母親ですらも、息子の国王に苦言を呈することは滅多にない。
 国王自身から全幅の信頼を寄せられているからこそ、またその自負があるからこそ、可能なのだ。
(国王の威厳とやらを崩さないよう、ここの女性達から見えないところで叱られる…というわけか)
 一応、その程度の配慮は、リザも弁えてくれているようだ。
 そうなったら仕方ない。
 彼女の小言を一通り聞くしか、逃れる術はないのだと諦め切っていた丁度その頃。
 前方を歩いていたリザの足が、ふと止まった。
「ホークアイ女官長…?」
「しっ…お静かに願います」
 いつも、ロイを諫言する、彼自身のハレム内での寝室ではなく。
 その少し手前にある、女性達の住まう居住区の一画で、リザの足は止まったのだ。そして彼女は、開け放たれた小窓の向こう側を見つめている。
(――――どうしたというのだ?)
 自然、ロイの視線も、その小窓に向けられた。
 その窓の向こう側には、ハレムで暮らす女達の一人が住まう部屋があるということは、ロイ自身もよく分かっている。恐らくその部屋も、ロイが名前すらも知らない女性が使っているのだろうと推測して、小さな窓の先に広がる、そう広くない一室を見ると――――

(これは………)

 ロイは、一瞬息を呑んでしまった。
 燭台の、仄かな明かりに照らし出された室内。
 国王であるロイの寝室に比べれば、遥かに質素な造りとなっているその狭い部屋の片隅。
 小振りの長椅子に横たわっている一人の女性の姿が、ロイの目に飛び込んできたのだ。
 淡い光に輝く、豊かな金の髪。
 乳白色の滑らかな肌に、物憂げな風に節目がちで開かれている、琥珀色の瞳。仄かに赤い唇は艶やかで、薄紅色の長衣に包まれた、ほっそりとした肢体は、彼女が成熟した女性ではなく、少女と言ってもよいくらいの年頃なのだということを顕にしていた。
(……この少女は…)
 美しい女など見慣れているロイが見ても、相当の美少女だ。
 あと数年経てば、リザと張るくらい…いや、リザ以上の美女になるであろう美しい少女が、その小部屋にいたのだ。
「――――陛下、こちらへ…」
 暫し黙って少女を見つめていたロイの耳元で、こっそりとリザが囁いて、ようやく彼は我に返った。その後慌てて、再び歩き始めた女官長の後を追いかける。
「ホークアイ女官長、あの少女は…?」
 だが、その問いかけに、前を歩くリザは答えることなく。
 ただ、彼女を追いかけるしかなかったロイが辿り着いたのは、自分の寝室だった。
 そこを人払いし、二人だけになったのを確認したリザは、ようやく自分が仕える主君に向かって口を開いたのだ。
「……あの娘は、先日人買いが斡旋してきた奴隷です」
「奴隷だと……?」
「はい。何でも、出自はエルリック王国…だとか」
「エルリック王国……アメストリス帝国に攻め込まれたあの国か?」
 それならば、奴隷だというのも頷ける。アメストリス帝国が攻め込んだどさくさに紛れ、彼等人買い達はその国の人間を捕まえては、奴隷に仕立てて売り飛ばすのを生業としているのだから。
「エルリック王国は、アメストリス帝国の急襲によって、反撃する間もなく瓦解したというが…。彼女もその犠牲となってしまったのか…。国では、不自由ない生活をしていただろうに…」
 一目見ただけでも、少女が庶民の出ではないことくらいは、ロイにも分かった。
 その容姿といい、さり気ない物腰といい、どう見ても彼女は上流階級の出だろう。
 それが、どういう運命の悪戯か、隣国の国王の後宮にまでやってきてしまった。小窓の向こうで身体を横たえている少女からは、己の境遇に対する憂いが漂っていた。
「――――そうでしょうね。エルリック王国は、小国といえど、治世は安定しておりましたから…。国王も賢王と評判が高かったですし、そのご息女ともなれば……」
「何……だと?今、何と……?」
 隣で話す女官長の言葉を、ロイは聞き咎めた。
 するとリザは、涼しい顔ですぐさま答える。
「おや…?一目見て、お分かりにはなりませんでしたか?あの方は、エルリック王国の現国王のご息女、すなわち王女殿下であらせられる、エドワード・エルリック様ですわ」
「――――!」
 リザの発言を聞いたロイは息を呑み、続いて少女のいた棟の方に顔を向ける。
 そして、憂いを含んだ美少女の姿を思い浮かべた。
「――――それは、確かなのか、ホークアイ女官長?」
「まず、間違いないでしょう」
 すかさずリザは、答える。
 きっぱりと。
「人買いがここへ最初に連れて来た時から、彼女はきっと名のある家の出なのだろうと思っておりました。立ち居振る舞いからして、私とは違っておりましたので…。それで名前を聞いたところ…」
「エドワード、と?」
「はい」
 リザは頷く。
「用心しているのか、姓は名乗りませんでしたが、名前だけで分かりました。この方は、エルリック家の王女なのだ、と」
「確かに…。娘に『エドワード』という男名をつけるという特異な習慣のある国は、他にはないからな…」
 病弱な娘が元気になるようにと、敢えて男名をつける習慣が、かのエルリック王国にはあるのだという話を、ロイはやっと思い出した。
「ええ。それに、お噂では、エルリック家の王女は、『黄金(きん)の姫君』と呼び称えられるほどの、美しい金の髪と瞳の持ち主だとか…」
「そう、だな…」
 確かに、今、ロイ達の傍にいる少女は、そう褒め称えられてもおかしくないくらいの、艶やかな金色の髪と、鮮やかな金の瞳の持ち主だ。このような美しさは、この国には存在しない。まさに稀有なものとしか表現しようがないだろう。
 あの少女はまず間違いなく、エルリック王国の王女なのだという確信が、ロイにはあったが、一方で、疑問もすぐに浮かんできた。
「しかし、ホークアイ女官長。彼女が王女だと分かっていたのなら、どうしてこれまで黙っていたのか?すぐにハボックにでも知らせてくれれば、そこからエルリック家の者へと伝えたものを…」
 伝え聞くところによると、攻め込まれたエルリック王国の王家の者達は、国王一家を筆頭に、その大半が縁戚関係にある隣国へと逃れたという。
「行方不明の王女が、我が国で見つかったと伝えたら、かの方々も喜ばれることだろう」
「――――ということは、陛下は彼女をこのままここに置かれるおつもりはないと?」
「当然だろう」
 リザの問いかけに、ロイは即答する。
「あの王女はまだ、子供だ。ここで暮らさせるのは酷だと思わないか?」
 確かに、先刻見た王女は美しい。
 今はまだ、ロイから見れば対象外の子供だが、あと数年たてば、相当の美女になるだろう。
 手元に置いておき、そうなるまで待つことも、ロイが望めば可能だ。
「だが、私はそこまで人非人ではない。あの、理由もなく突然侵攻したアメストリス帝国のように、な」
 彼女がエルリック王国の王女だと判明した今は、彼女を親元に帰すのが筋だろうと決めていた。
 かの国とは、然程親しい関係でもなかったが、かと言って敵対関係でもなかったので、そうするのが妥当だろうと思ったまでのことだ。
 ――――しかし。
 ロイの考えにすぐさま賛成するであろうと思っていた、聡明な女官長は。
 眉をひそめておもむろに口を開く。
「……陛下、あの王女殿下をすぐに帰すのは避けられた方がよろしいかと思います」
「…どういうことだ?」
 ロイは、驚いた。
 自分が後宮に入った経緯からか、この女官長は、強制的に女を後宮に入れることを良しとしていなかったからだ。例え相手が奴隷であっても、ここがどういう場所かを承知の上で入れさせる。そのための説明を懇切丁寧にして、入れさせていた。大概の女性達は、覚悟の上で後宮に入るのだが、中には国王の夜の相手はしたくないということで、単なる召使として後宮に入る者もいるようだった。そんな女性達に関しての采配も、全てリザに任せていた。
 だからこそ、今回の件については、率先して王女を解放することに同意してくれるのだと思っていたのだが……。
「…すぐに返すと、何か支障があるというのか、ホークアイ女官長?」
「……これはまだ、あくまで噂の域なのですが…」
 主君の問いに、リザは躊躇いがちに答え始める。
「―――最近王宮外で囁かれている噂が、耳に入ってきたのです」
「……噂?」
「はい。まだ、国内には、余り広まっていないようなのですが…。この度の、アメストリス帝国のエルリック王国への突然の侵攻には、目的があったのだと…」
「目的が…?」
 ロイは、訝しむ。
「あの、さして目立つ産業のない小国へ攻め込むための、重大な目的があったというのか?」
「はい……あくまで、噂なのですが。アメストリス帝国の皇帝が、エルリック王国の王女を望んだ、と…」
「何……?」
「当初は、現皇帝の第二妃として迎え入れたいと、正式な使者をたてて要望したそうなのですが……。エルリック王国の国王は、すぐさま拒否された、と」
「当然だ」
 ロイは、あっさり言い放つ。
「確か、アメストリス帝国の現皇帝は、齢六十を超えるじいさんだろう?それに、長年連れ添った皇妃もいる。そんな奴の所に、まだ子供のような大事な娘を嫁がせたいと思う親が、どこにいるか」
「ですがその結果、すぐさまアメストリス帝国はエルリック王国に攻め込んだ…と。そのような噂が我が国にも伝わってきているようです」
「―――あの、王女が欲しくて、軍を出したというのか?」
「……あくまで噂、ですが。ただ、アメストリス帝国の皇帝が、単なる色欲だけでかの王女を望み、攻め込んだというのなら、どうにも救いようのない耄碌爺の仕出かした、愚行と捨て置けばよいのですが…」
「確かあの国の現皇帝、キング・ブラッドレイは、色ボケ耄碌爺という言葉からは縁遠い輩ではあるな」
 リザの辛辣な言葉を、ロイが継ぐ。
「現皇帝は、六十を超えた今もなお剛健で、今回の侵攻も、自ら兵を率いたと聞きます。それに、政治的能力にも優れていて、今のアメストリス帝国の版図は、彼が拡大したものですから…」
「……単なる、ロリコン親父の戯言による攻撃ではなさそうだな、どうやら」
「―――と、思われます」
「……彼女が、王女だと知っている者は?」
「今のところ、私と陛下のみ、ですが」
「そうか……。ならば暫くは、ここにいさせるのが、得策のようだな」
 暫し考えて、ロイは結論を下す。
「後宮にいれば、少なくとも外部の人間に見られることはない。この場所ほど、安全な所はないだろう」
 王宮の奥の奥。
 国王以外の男は、決して入ることの出来ないハレムだ。
 しかも女性ばかりの場所。
 これ程隠すのに適した所は、他にはないだろう。
「…エルリック王国の方々には申し訳ないが、アメストリス帝国が彼女を狙う理由が明らかでない今は、隠しておいた方がいいな」
 そうした方が、王女にとっても安全だろう。
「それでは、王女の面倒は君に任せるが…頼めるか?」
「―――御意のままに」
 ロイの依頼に、リザは跪いて頭を下げる。
「……ですが、一つだけ、お願いしたい儀がございます」
 跪いたまま、リザは続けて話す。
「―――何だ?」
 促すと、リザは心持ち顔を上げて、ロイの顔を見ながら再び口を開いた。
「かの王女殿下を、今宵、陛下の寝所にお招きしていただきたく存じます」
「………は…?どういうことだ?」
 リザが今言った事を、脳内で思い出していたロイは、ぽかん…と間が抜けた顔をして答えた。
「現在、王女殿下は、ハレムの一女性としての扱いをされています。そうとしか出来ないのが実情ですが…。しかし、陛下が一度お召しになられれば…」
「あ、ああ、そういうことか…」
 リザの説明で、ロイはやっと理解できた。
 後宮の女性を、国王が夜の相手に召せば、その女性は国王のお手がついたということで、特別待遇をすることになるのだ。
 それまでの質素な部屋住みから、豪奢な棟へと住まう場所が変わる。更に、国王の子を産めば、更に待遇は良くなるのだ。
「一度でも彼女を呼べば、公然と彼女の待遇を良くすることが出来るということか」
「はい。その方が、王女殿下をお守りしやすくなるかと…」
 更に人目につかない、寵妃の立場にすれば、守る側としても助かる。故に、リザはそのような申し出をしたのだ。
「ホークアイ女官長の言うとおりにしよう。…早速、今夜がいいか?」
「―――出来ましたら」
「では、そのように手配を頼む。それから、隣室に寝具の用意もな」
「……御意」
 リザは一瞬その鳶色の瞳を見開いたが、すぐさま微笑んで一礼し、立ち上がって寝所を後にした。
(……彼女は、あれで分かってくれただろう)
 ロイは、自分の背後にある、広々とした寝台を見て苦笑を浮かべる。

 王女を召すことを了承したが、手を出そうとはこれっぽっちも思っていない。
 王女は、年から行っても守備範囲外だ。
 自分の好みは、もっと成熟した大人の女性なのだから。


「例え、王女がどんなに美しくとも…」

 今宵、抱くことはないだろう。
 だから、リザに指示をしたのだ。
 隣の部屋でも、眠れるように準備をしろ、と。


「ただ……」
 純粋に、興味はあった。
 アメストリス帝国が、攻撃してまで欲しがったとされる、エルリック王国の王女。
 その存在に、興味はあった。
 彼女に、そうするまでの価値があるのだろうか…と。
 彼女の何が、アメストリス帝国の皇帝を動かしたのか…と。
 それを、ロイは知りたかった。


「――――さてさて、どんな姫君なのか…」

 先刻垣間見た美しい姿を思い浮かべながら、ロイは待つことにした。



 もうすぐ、ここにやってくるであろう、亡国の姫君を。