rosa damascena 1

「――――何だよ、ここ…」


 こんな豪奢な場所、見たことがない。
 エドワードは、目の前にそびえる巨大な宮殿を見上げて、呆然と呟いた。




 自分が連れて来られた、この場所。
 マスタング王国の代々の王が住まうとされる、宮殿の正面。
 大理石で出来た、大きな正門の前で立ち尽くして。


「…こんな建物、オレの国じゃ絶対に造れっこない」

 見上げたまま、そう呟いた時。
「おいっ!ボケッとしてないで、さっさとこっちへ来い!」
 野太い男の声が、開かれた門の中から響き、やや乱暴に、エドワードの両手を縛っている縄が引っ張られる。その動きに抵抗する間もなく、エドワードはヨロヨロと正門の中へと足を踏み入れた。
「オレはこの後も、仕事が残ってるんだ。おまえ一人だけに関わっている暇はねぇんだよ」
 日焼けした、中年の男は、エドワードをなおも中へと引っ張りながらぶつぶつと呟く。その言葉を聞いたエドワードは、前を歩く男の背中を睨みながら、後をついて歩いた。
(…オレだって、好きでこんなとこに来たんじゃない!)
 心の中では、そう叫びながら。

 そう。
 こんな、知る人もいない他国になど、来たくはなかった。
 ずっと、自分の故国で穏やかに暮らしていたかった。

 領土も広くはなく。
 他国に誇れる力もないけれど。
 エドワードの父である、領民思いの君主の下。
 皆、幸せに生活していた……筈だった。
 突然の……そう、余りに突然の、アメストリス帝国の侵攻……までは。



 エドワードの父・ホーエンハイムが治めるエルリック王国のあるこの大陸内で、最も広大な領土と、強大な力を持つアメストリス帝国が、いきなり、宣戦布告もなくエルリック王国へと攻め入ってきたのだ。
 その、唐突な侵攻に驚き、また戸惑いつつも、国王は国を守るべく立ち上がろうとしたのだが。
 圧倒的な武力の差に、エルリック王国の軍は、反撃する間もなくあっという間に瓦解し、国王一家は、縁戚関係である隣国へと亡命。領民達も、住み慣れた祖国から逃げ出すしか術はなかった。
 祖国に、留まるわけにはいかなかった。
 もしそんなことをしたなら。
 敗北した国の人間の末路など、分かりきっていた。
 大国に隷属するものとして、搾取され続けるだけの暮らししか残されていない境遇に、自ら居座ることなど出来る筈がない。
 だからこそ、領民は我先と故国を後にした。
 例え、難民となっても、あの、冷酷非情な皇帝が治める国だと噂されている、アメストリス帝国の配下になるよりはましだと。
 しかし、ただ支配され、増税に苦しむだけなら、まだましだ。
 中には、捕まえられ、奴隷としてアメストリス帝国に連れて行かれる者も多数いた。
 体力のある男達は、鉱山などの劣悪な環境下の、過酷な力仕事に駆り出され。
 そして、若く美しい女性は、貴族や裕福な商人達の後宮、いわゆる『ハレム』に入れられる奴隷として。 
 逃げ遅れた多数の人々が、そのような奴隷として、アメストリス帝国へと連れて行かれてしまった。
 エドワードも、そんな人々と同じ境遇に陥ってしまった。
 アメストリス帝国が国に攻め込んできた日、偶然にも、他の家族よりも一足先に、王都の郊外にある離宮へと向かったのがいけなかった。
 離宮に到着するやいなや、アメストリス帝国軍の侵攻を知り、そのまま王都に引き返すことも出来ず、とりあえず数人の侍女達とともに、両親達が落ち延びるであろう隣国を目指した。だが、その中途で、運の悪いことに、エドワードの乗っていた馬車は国境付近で盗賊に取り囲まれ、そのままアメストリス帝国ではなく、もう一つの大国である、マスタング王国へと連れて来られてしまった。
 逃げる間もなく、異国へと来なければならなかったエドワード達は、奴隷市場で次々と売られてしまい、エドワードも売り物の一つとして連れてこられたのがここ―――――あろうことか、マスタング王国の国王が住まう宮殿だったのだ。



「…本当に、おまえは運がいいぞ。奴隷だろうが、国王陛下のハレムに入れるんだからな。寵愛を得たら、思いのままの暮らしができるぞ」
 エドワードをここへと斡旋する男の、嬉しそうな言葉を、エドワードは他人事のように聞きながら、大きな正門を通り抜ける。
 その先には、ただただ広い庭があり、たくさんの人々が行き交っていた。
「ここはまだ、誰でも入ることの出来る『外廷』だ」
 男は簡単に説明すると、更に奥へと進む。
 エドワードは、美しく整備された庭をきょろきょろと眺めながら、男の後をついて歩いていった。
 ――――その広い庭を、暫く歩いていると。
 やがて、二人の前には、第二の門がそびえ立っていた。
 先刻の正門とは形が違うものの、その門も大理石で造られた、重厚なものだ。
 しかも、その門からは、左右に高い壁が延びており、たくさんの人々がいる庭と、その内をはっきり隔絶していた。
「…あれが、中門だ。あそこから先は、役人や政府高官といった、限られた人間しか入られないんだ」
 男の説明を聞いて、エドワードはこの高い塀の存在に納得する。
 ここは、この国の要の場所なのだから、警護が厳しくなって当然だ。
 よく見れば、大袈裟にならない程度に、さり気なく警護の兵士が配されていて、絶えず行きかう人々に向けて目を光らせている。
「そして、更にこの奥に、国王陛下の住まう場所があるんだ。おまえはそこに行くことになるんだぞ」
 いかにも、『光栄に思え』という含みを持った言い方に、エドワードは眉をひそめる。
 確かに、この国の女性にとっては、国王の寵愛を受けられるのは、最高の栄誉になるのかもしれないが、エドワードにとっては何の価値もない。
 無理やりに連れて来られて、光栄に思うことはまずないだろう。
(……アメストリス帝国に売り飛ばされるよりは、ましってことかな…)
 こっそり溜息をつき、心の中で呟く。
 このマスタング王国も、大陸の中ではアメストリス帝国と肩を並べるほどの大国だ。元々は一小国であったこの国を、ここまで領土拡大出来たのは、先代の王と、その息子である現国王の政治的手腕によるものだと、エドワードも教わっていた。
 ただ、エドワードの国を滅ぼしたアメストリス帝国と違うのは、アメストリス帝国が圧倒的な力による他国の支配によって大きくなったことに対して、マスタング王国は、他国との融和路線による拡大だという点だろう。
 極力、武力は用いず、国同士が互いのメリットを見出す条約を結び、その国の君主がマスタング王国の宰相などの重要な役職に就く。彼等は定期的に開かれる、御前会議によって国の方針を話し合う。そして、その制度の頂点にあり、最終決定権をもつのが、国王だ。
(――――その、現在頂点にいるのが…確か…)
「今の国王はまだ若いんだが、先代国王よりも切れ者だって、専らの噂だ。その上、なかなか、美丈夫らしいしな」


(……そう…確か…名前は…)
「さあ、ここが、その現国王、ロイ・マスタング陛下が住まう、内廷に繋がる入口だ。そして、おまえが暮らすことになる場所だな」
 ぼんやりと考えつつも、中門の、大きな門扉の前に到着したエドワードの前には。
 エドワードよりも幾分か薄い。
 だが、艶やかな金の髪を綺麗に纏めて結い上げ。
 この国の民族衣装だろうか。青色の長衣に袴、そして頭から薄いベールを被った美しい女性が、エドワードの前に立っていた。


(……この人は…?)
 とても美しい、だが理知的な眼差しでエドワードを見つめている若い女性は、暫しエドワードの顔を見つめた後に、ゆっくりと口を開いた。
 エドワードを連れて来た、男に向かって。
「―――この子が、あなたが言っていた例の…?」
「はっ、はいっ!エルリック王国から連れて来られた女です。どうです、この髪、瞳、この国には珍しい取り合わせでしょう?ちょいときつめだが、顔立ちもいいし、これは掘り出し物ですよ」
 まるで宝石でも売ろうとしているかの口上に、エドワードは唇を強く噛み締めて堪える。
 今の自分には、男に抵抗できるだけの力はないのだと、分かりきっているから。男にとっては、自分は単なる売り物の一つでしかないのだ。
(……例え、エルリック王国の王女だと言ったって…)
 そんな肩書きは、ここではまるで役に立たない。
 滅ぼされてしまった、国の名など……。
 俯き、じっとただ黙って堪えているエドワードを、その美しい女性は暫し見つめ。
 やがてゆっくりと、口を開く。
「――――あなたにしては、珍しいわね。こんな少女を連れてくるなんて…」
「たまには、違ったタイプの女も新鮮かと思いまして。それに、そちらで教育しているうちに、こいつは美女になると思いましてね」
 明らかに年下と分かる女性に対し、男はあくまで低姿勢で、揉み手までして、エドワードを懸命に売り込もうとしている。その様子からも、この目の前にいる美女が、宮殿内でかなり高位にある人なのだと窺い知れた。
「……確かに…とても綺麗だわ」
 美女はなおもエドワードを見つめていた。その視線に吸い寄せられるかのように、エドワードが顔を上げて彼女見ると、その顔がふわりと綻んだ。
「――――分かりました。あなたの言い値で買いましょう」
「あっ、ありがとうございます!ホークアイ女官長様!」
 美女――――『ホークアイ女官長』の承諾の言葉を聞いた、斡旋屋の男はその巨体を直角に折り曲げて、ぺこぺこと頭を下げる。
「代金は後程、あなたの店に持って行かせますから」
 と言いつつ、女官長の目線はすぐにエドワードへと戻る。
「じゃあ、行きましょうか。……ええと……あなたの名は?」
 その時点でようやく、女官長は買った少女の名を知らないことに気づいたようだ。
 売り物になっている奴隷の少女に対する関心なんて、その程度のものなのだろうとエドワードは思いつつ、それでもぽつりと名乗った。
「――――エドワード」
「…そう。何だか男の子のような名前ね。エルリック王国では、女の子にそんな名前をつける習慣があるのかしら?」
 女官長に先導されながら、エドワードは中門を通り抜ける。
「…全員がっていうことはないけど…生まれたときに身体が弱い子なんかは、敢えて男名をつけることはあるんだ。丈夫に育ちますようにって」
 薄暗い門の中を歩きつつ、エドワードは答える。
「そうなの。じゃあ、あなたも?」
「うん……じゃなくて、はい…」
 女官長は、親しげに話しかけてくる。その様子を見ただけでは、とても高位の女性には見えない。だからこそ、エドワードも警戒心を幾分解いて、話すことが出来た。
「…そう緊張しなくてもいいわ。私の前では」
 一応高位の人間と言うことで、使い慣れない敬語を使おうとしたエドワードに対し、女官長は微笑んで話しかける。
「――――あなたのこれから行くところは。なかなか階級が厳しい場所だけれど、礼節を忘れなければ暮らしやすい所かもしれないわ。まず、衣食住には全く困らないし」
「………」
 確かに、彼女の言うとおりかもしれない。
 エドワードのような王女とは違って、ハレムには市井の女性も多数入ってくると聞く。その中には、日々の暮らしにも困る者もいるだろう。そのような境遇の女性達にとっては、ここでの生活はまさに夢のような豪勢なものに違いない。
「…外に出られないのが不自由だけど、退屈はしないと思うわ。女性達を楽しませるものはいろいろ揃っているしね」
 女官長の言葉で、確信する。
 やはり、ハレムの女は、容易く外には出られないのだと。
 どうやら、覚悟を決めないといけないようだ。
 誰も、助けになど来てくれない。
 隣国に亡命した両親達が探してくれているだろうが、自国を失った王に、自分の娘を助け出す力などないに等しい。
 それにもう、自力ではここから抜け出せないのだと、覚悟していた。
 自分は、ここで生きていかなくてはならないのだと。
 門の奥。
 またしても広い庭が、エドワードの目の前に現れてきた。
「…ここから先が、内廷という場所。あなたの暮らす所は、更にこの奥になるわ」
 と、案内しつつエドワードを招き入れる女官長に、エドワードは呼びかけた。
「ホークアイ女官長」
「―――何かしら?」
 呼ばれて立ち止まり、振り返った彼女に対し、エドワードはゆっくりと口を開く。
「……オレ、この国の作法とかしきたりとか、全然知らないから…これからいろいろ迷惑かけると思いますけど、よろしくお願いします」
 そう言って頭を下げるエドワードを、女官長は暫しじっ…と見つめていたが。
 すぐに笑みを浮かべて、エドワードに頭を上げるよう促した。
「―――こちらこそ。よろしくお願いするわ。それから、私のことはリザ、でいいわよ。リザ・ホークアイ。これが私の名前なの」
「リザ……さん…?」
「ええ、よろしくね、エディ。エドワードという名もいいけど、あそこじゃ堅苦しくなってしまうから、私はエディと呼ばせてもらうわね」
 と言って優しく笑いかけるリザは、まるで姉のようだとエドワード思い。
 エドワードの肩から、ようやく力が抜けた。