『爪きり』

 特に、事件らしい事件も起こらなかった昼間の東方司令部は、至って穏やかだ。
 その上今日は天気が良くて暖かいので、誰もが何となくのんびりムードで仕事をしていた。
 そんな中。
 ロイ・マスタング大佐の執務室では、先程からずっと、紙を捲るような音と、数本のペンを走らせている音しかなかったのだが。
 ふと、1本のペンの走る音が止まり、それに倣うかのように全てのペンの音も止まる。続いて、後者の者達が前者のペンを止めた理由を確かめようと見れば。
(……なるほどね)
 すぐに、納得する。続いて、最初にペンを止めた人物、ロイ・マスタング大佐にそれと分からぬようにこっそりため息をついた。
 ロイの持つペンの動きが止まった訳。
 それは、彼の正面にある応接セットに座っていた人物を見るためだった。
 その人物は、ロイが見ていることにも気づかず、分厚い本のページをめくって読みふけっている。その集中力と速読力は凄まじいもので、この室内にいる大人達の誰も、彼に太刀打ちできなかった。
 それ程に、興味を引かれることについては貪欲に吸収しようとする、『鋼の錬金術師』ことエドワード・エルリックは、室内の他の人間達の視線にも気づかず、読書に集中していた。
「……鋼の」
 だが、彼の読書の間を割って、突然ロイが話しかけてきたのだ。いつもなら、きりのいいところを見計らって、呼ぶのに。その場にいた、リザ達も少々驚きを隠せない。
「う〜〜〜ん、何…?」
 案の定、相変わらず本に神経を集中しているエドワードからは、生返事しかなかった。
 その答えで、ロイがエドワードに話しかけるのを諦めるかと思いきや。
(た、大佐…?)
 ロイ以外の5人の部下は、ぎょっとした。
 突然引き出しを開けて何かを取り出すやいなや、席から立ち上がってつかつかと真っ直ぐソファへと向かい。
「鋼の」
 エドワードの隣に座ったかと思いきや、何の躊躇いもなく彼のページをめくっていた左腕を掴んだのだ。
「えっ……?」
 エドワードはそれまでずっと本に向けていた視線を、やっと外して隣にいるロイに移す。その表情には、読書を中断された怒りよりも、何の脈絡もないロイの行動に対する戸惑いの方が強く現れていた。
「ど、どうしたの、大佐?」
 彼の問いは、ロイ以外のその場にいる全ての人間の、共通して思ったことだった。
「鋼の……」
 ロイは相変わらず厳しい眼差しで、エドワードと彼の左腕を交互に見る。
「な、何だよ?」
 自分を見る厳しい表情に、読書を中断された怒りを告げるタイミングを逸したエドワードは、少々及び腰になる。
 2人以外のこの場にいる者達も、エドワードが何かやったのか?と、ハラハラしながら成り行きを見ていると。
 突然、ロイはエドワードの左手を自分に引き寄せ、右手に持っていた爪きりでいきなり切り始めたのだ。
「な………」
 プチン、プチンと小気味よい音が、室内に響く。
「鋼の。左手の爪がかなり伸びているぞ。いつから切っていなかったのだね?」
「えっ…ああ…えっと……」
 ロイからの質問に、エドワードは懸命に思い出そうとしてはいたが、結局答えることが出来なかった。
「思い出せないくらい前から、切ってなかったということだね?」
「だってさ…右手で爪きり使うの、苦手なんだよなぁ」
 精巧な機械鎧でも、爪きりのような細かな作業は上手くいかないのが現実だ。そういう時は、生身の腕の方がいいと一層思えてしまう。
「アルにやってもらおうかとも思ったけどさ。あいつの手、大きくてごついだろ?オレより爪きり使うの苦手そうなんで、頼むの止めたんだ」
「だからと言って、伸ばしっぱなしにしていたら不衛生だ」
 そう言いながら、器用にエドワードの爪を切ってゆく。その様子を見ていたリザ・ハボック・ブレダ・ファルマン・フュリーの5人は、ほぼ一斉に脱力して深いため息をつく。
 自分達の上司であるロイの突飛な行動には、これまでも幾度となく驚かされてはきたが、今回のもその中のベスト5に入るくらいのものだと全員が思っていた。
(…大体、こんな所でいきなり爪切るか?)
 ボソボソとハボックが隣にいるブレダとファルマンに話すと、彼等もまた深く頷くことで同意を示した。
(大佐って…意外と細かいことにこだわるんですよね?)
 と、フュリーがぽそっと呟けば。
(もう少し、仕事の面でこだわってほしいわね…)
 と切実そうにリザが漏らす。
「…よし、これでいいだろう」
 部下達がそんなひそひそ話をしている間に、ロイはエドワードの爪きりを終えたようだった。
「サンキュ、大佐」
 綺麗に切り揃えられた指先を見て、エドワードが礼を言う。そんな彼の嬉しそうな様子を見て、ロイも満足げだったので、他の面々はこれで仕事を再開してくれると安堵したのだったが。

「いやいや、礼には及ばないよ、鋼の。これで私の引っかき傷が少なくなることを思えば」


「……は?」
 ロイ以外の者達の顔面に『?』マークが浮かび。
 一瞬の間が空いて。
 最初に行動したのは、言われたエドワード本人ではなく。

 スッと静かに銃口を向けた、リザだった。
 勿論、銃は躊躇うことなく真っ直ぐロイに向けられている。
「大佐、このような場での不適切な発言はお控えください」
 彼女の静か過ぎる声が、却って迫力を増している。それゆえ、銃口の先にいるロイのみならず、他の面々も凝固してしまっていた。
「あ、ああ、すまない、中尉」
 慌てて謝るロイの額には、冷や汗が浮かんでいる。その隣に立つエドワードも、ロイの爆弾発言を聞いてすぐは顔を真っ赤にしていたが、リザの行動で今は蒼く変わっていた。
「おわかりいただければ結構です。では、仕事を再開してください。そこにある書類の締め切りは、今日までですから」
 彼女のその言葉を合図に、皆一斉に自席へと戻って仕事を再開する。エドワードも、途中で止まっていた読書を慌てて始めた。

 再び静寂が室内に戻り。
 普段よりも2倍弱のスピードで仕事を上げることが出来た面々は、定時で東方司令部を後にし、揃って食事へと出かけられた。
 当然のことながら、代金はロイ持ちで。

 
 その後、東方司令部でのロイ・マスタング大佐の禁止事項に、『爪きり』が新たに加わったのだが、そのことを知るのはごく一部の人間だけだった。






 …東方司令部の愉快な面々、第2弾です。いやぁ、ロイっておちょくると楽しいです!(これも愛ゆえ…です。ほんとよ…。)ただ、ロイにつけられる傷って、爪の引っかき傷以外もありそうですよね?だってほら…腕とか足とかああだからね、エドは…。(この件については深くつっこまないよーに!)