Miss you… -9-

「ねえねえ、陛下は結局戻っちゃったの?」
「…そうみたいだな。ああ見えて、結構皇帝ってのも忙しいみたいだ」
「ふうん…。家臣に何でも任せておけばいいってわけでもないのね…」
「あのなぁ、ウィンリィ…」
 濡れた髪をタオルで拭きながら、呆れたようにエドワードは呟いた。
「ああ、ほらっ、ちゃんと乾かさないと風邪引くわよ!」
「わかってるって。…だからそんなに乱暴に拭くなよな!」
 と、口ではぎゃあぎゃあと言いながらも、エドワードはウィンリィのするに任せていた。ちゃんと乾かさないと、せっかくさっき入浴した意味がなくなるからだ。
 この、エドワードの就寝前の入浴は、宮殿にいた頃からの習慣となっていた。
 温暖なエルリック王国と違って、マスタング皇国は少し寒い。夜ともなれば、例え春でも結構冷えるので、エドワードは寝る前に入浴することで体を温めて眠るようにしていた。
 でないと、なかなか眠りにつけなくなってしまうからだ。
(くそっ…こんな所で古傷が堪えるなんて…)
 ぎゅっ…と自分の右腕を左手で握り締める。
「…エド、痛むの?」
 そんな彼の様子を見ていたウィンリィは、心配そうに聞く。
「いや…大したことない。少し疼くだけ…」
 否定して、そっと微笑む。
「そう…?でも痛み出したら早く教えてね。薬は調合してあるから」
「―――ありがとう、ウィンリィ」
「いいって。私は、あんたの主治医なんだから」
「未来の王妃様が、主治医か。気分いいなあ…」
 エドワードは、冗談めいてくすくす笑いながら言う。
「何言ってんの。あんただって、未来の皇妃様候補のくせに…!」
 だからつい、軽い気持ちで、冗談として返したつもりだった。
 だが、ウィンリィの言葉で、エドワードの顔から楽しそうな笑みが消えてしまったのだ。
 代わって、彼の少し青ざめたような顔に浮かんだのは、寂しそうな微笑だった。
「―――オレ、皇妃にはなれないよ」
「……あ…ごめん……つい…」
 すぐに謝るが、エドワードは首を横に振って言葉を繋ぐ。
「ううん。ウィンリィは悪くない。悪いのは…オレだ」
「エド……」
「いつまでも…煮え切らない態度でいたから…」
 一度は、この国から追い出されるために、わざと王女らしくない振る舞いをした。
 それでも出ることは叶わなくて、手段も思いつかなくて、憔悴していたところへ、彼が手を差し伸べてくれたのだ。
 今、最も離れなければならない相手である、婚約者。

 この国の、皇帝が。

 彼は、自分より随分大人だった。
 多少子供みたいな、我侭めいた部分も時折出すが、それ以外は大人だと思う。
 あんなに悪行三昧をしていた自分が一番悪いのに、それに対して怒ったことを、謝罪したのだ。
 本当なら、自分が先に謝るべきなのに、だ。
 そして、細やかな気遣いをしてくれる。
 忙しい身なのにも関わらず、こうやってわざわざ離宮に赴いてくれ、乗馬などにも付き合ってくれる。
 その扱いは、既にエドワードを皇妃として認めているようにも見受けられ、事情を知らぬ離宮の侍女達は、エドワードが皇妃に決まったものと思い込み、彼を皇妃扱いするようになっていたのだ。
(オレが…ほんとに皇妃になれるのなら…いいのにな…)
 本当に王女だったら、こんなにも悩む必要はないだろう。
 皇妃としてロイの隣に立ち、彼を支えていくよう努めるだけだ。
 本当に……王女だったら……
「…仕方ないとは言っても、今回は少し辛いや」
「エド……」
「でも、今更どうにもならないもんな。王女として生きるしか、方法が無かったんだし…。それも全て、オレのためだからな…」
 そう、仕方なかった。
 自分が生きるためには、そうせざるをえなかったのだ。
(いつまでもつか…わかんないけど)
 エドワードは、無意識に右腕を握っていた手の力を強める。また、疼きがひどくなったような気がして。
「そうはいっても…どうするの?今のままじゃ、なし崩しに皇妃にさせられちゃうよ?」
「大丈夫だ。その点は、ちゃんと考えているから」
 不安を口に出すウィンリィに、きっぱりと言う。
「国や…おまえに迷惑を掛けないように、考えているから」
「エド……」
「明日、宮殿に戻ったら、決着をつけるよ。だから、そんな不安そうな顔をするなよな」
「ほんとに?大丈夫なの、エド?」
「大丈夫だって。オレを信用しろよ、な?」
 そう言って明るく笑うエドワードを見ていても、ウィンリィの心に巣食っている言いようのない不安を拭い去ることは出来ずにいた。
 だから、彼女には祈るしかなかった。
 何に、という対象はない。
 だが、何かに縋るように祈った。
(…どうか、エドをこれ以上苦しめないで……辛い目にあわせないで…)
 彼には、罪はないのだから。
 だから、苦しめないで欲しい。
 この、願いを叶えてくれというのなら、何にだって祈る。
 ウィンリィは、目の前で明るく振舞っているエドワードを見ながら、懸命に祈り続けていた。
 心の中で。



 夜更けになって、そっとエドワードは寝台から身体を起こした。
 夜は冷えるので、夜着の上にガウンを羽織る。
 それから、隣室で眠っているウィンリィを起こさないよう、足音を立てずに近づいたのは。
 明日、いつでも出立できるようにと、きちんと詰め終えた自分の鞄だった。
 たくさんある鞄の中から、一番小振りのものを開けて、中からそっと取り出したのは、古ぼけた細長い箱だった。古びてはいるが、しっかりとした皮製の箱にかけられていた鍵を外し、そっと中から取り出したのは。
 見事な装飾を施した、短剣。
 純金製のそれは、小振りで、恐らく女性用として作られたのだろう。柄を握れば、エドワードの手にあつらえたようにぴったりとはまる。その柄には、小さいが様々な宝石が彩りよく配されていて、この剣が、高貴な者のために作られたのだということが分かる。
 エドワードは続いて、鞘にそっと触れた。
 窓から差し込む月の光を映して、鈍く光る。その鞘に指をそっと這わし……丁度中心辺りで止まった。
 その部分に彫られている、図のような者をじっと見つめる。
「…これって、錬成陣だよな?」
 じっと見つめるそれは、どう見ても錬成陣だ。
 そのことは、両親からずっと錬金術を教わってきたので分かる。
 だがエドワードにとっては、初めて見る錬成陣だった。
 どんな錬金術書にも載っていない、錬成陣。
 元々、錬成陣自体、錬金術師のオリジナリティーが出て、且つそれがどのような意味を持つのかを秘密にすることが多いので、なかなか判読できないのだ。しかしこれを見ている両親にも、何のための錬成陣かが分からないということは、余程優秀な錬金術師が作り上げた錬成陣なのだろう。
 ただ、母親であるトリシャは、この剣をマスタング皇国に赴かなければならなくなったエドワードに、出発前日にそっと渡してくれたのだ。
『……この剣は、きっとあなたを守ってくれるわ』
 という言葉を添えて。
 それがどういう意味なのかを聞いても、彼女はただ微笑むだけで答えてくれなかった。
 その代わりに、エドワードに剣を握らせ、その手に自分の手を重ね、ぎゅっと強く握り締めて話し続けた。
『あなたが、これが必要だと思った時にだけ、これを使いなさい。そうすれば道は開ける筈よ』と。
 そう言って、優しく笑う母親の顔が印象的で…この剣を見る度に、そのときの顔が思い浮かんでくるのだ。
(母さんは…どういう意味であんなことを…?)
 言われた時は、疑問に思った。
 答えを出してくれなくて、悩んだ。
 だけど、今は。
(…本当に、これを使うなんて…な…)
 この剣を使った後に、どうなるかなんて予測はつかない。
 だけど今は、使わざるを得なかった。
 そのために持たされたのだと、思うことにした。
 例え母が、その目的のために使うことを願っていなかったとしても。
(ごめん……母さん…)
 ぎゅっと、剣を握り締める。

こんな使い方しかできなくて…ごめん。
 だけど、迷惑はかけないようにする。
 国にも…母さんやアル、そしてクソ親父にも。
 迷惑掛けないように、後始末はきちんとするから。
 だから、許して欲しい。

 こんな形でしか、終えられなくて……ゴメン。

 エドワードは冷え冷えとする部屋の中で。
 祈るように、剣を握り締めたままで床に跪いていた。

 ――――そうして、どれくらいの時が過ぎていったのだろうか…。
 目を閉じ、剣を握り締めていたエドワードは、ふと顔を上げた。

 気配が…したのだ。


(人の…気配?)

 気になって、窓際まで歩み寄り、そっと外を窺い見る。
 今夜はほぼ満月で、その光が眼前に広がる広い庭とその先に広がる湖、そして。
(誰…だ?)
 その庭を走り抜けてゆく人影を映し出していた。
(一人…二人……いやもっとたくさんだ)
 複数の人影は、辺りを窺うような仕草をしながら、少しずつ湖の方角からこの離宮へと近づいてくる。
(―――どう見ても、護衛の兵士じゃないな)
 あのようにこそこそと、隠れるように小走りで近づいてくるなど、いかにも自分が怪しいですと言っているようなものだ。
「…こんな夜更けに起きてる奴なんて、殆どいないだろうに…用心深いことだな」
 少々呆れたように小声で呟き、すぐさま身を翻して窓から離れる。
 手に持っていた剣は、そっとガウンのポケットにしまいこんで、隣室へと続く扉を開いた。
「ウィンリィ、起きろ!」
「うん…なに、エド?腕が痛むの…?」
 ベッドで眠っていたウィンリィは、目をこすりながらゆっくりと起き上がる。
「違うよ。今、外に怪しい奴等が蠢いている。これを着て、逃げる準備をしとけよ」
「怪しい奴って…?」
 ぼんやりとした口調で聞く。
「さぁ…。ここにいるのはオレだけだから、さしずめオレの暗殺者ってとこかな?」
「……なら、そんなに悠長にしてていいわけっ?」
 エドワードの先刻の言葉で、彼女は一気に目が覚めたようだ。
 ベッドから飛び降りて、ガウンを羽織る。
「このままぐすぐすしていると、流石にまずいだろうな。だから、取り敢えずは、ホークアイさん達と合流する」
 と言って、ウィンリィの手を引っ張って部屋から出た。
「でもでも、その暗殺者達ってどれくらい来てるの?」
「わからない。オレが見た限りじゃ、十人は下らないと思うけど…」
 薄暗い廊下を歩き、リザ達護衛が待機している階下の部屋へと向かうために、大階段を下りようとした時点で、二人は異変に気づいた。
「………煙?」
「あいつ等…火を放ったな」
 階下から上ってくる、白い煙を見て、エドワードは舌打ちをする。
 どうやら侵入者達は、何があってもエドワードを殺したいらしい。
「…ウィンリィ、急いで降りるぞ!煙に巻かれたらお終いだ」
 と言いつつ、階段を一気に下りようとした時、前方から複数の人間の姿が飛び込んできた。
「……あーあ、いかにも怪しいって格好してしてさ」
 呆れたように呟くエドワードには、恐怖の欠片も感じられなかった。
「顔を見られないように覆面で隠すのはいいとして、その黒装束はいただけないな。余りに安直過ぎる」
「…こんな時に、一々侵入者の装束批判なんかしないでよね!」
「だって、批判でもしないとやってられないしさ」
 そうエドワードが言った直後、目の前にいた暗殺者と思しき人間が、いきなり手に持っていた剣を振りかざしてきたのだ。
 その刃は、確実にエドワードをも狙っていたのだが。
「――――っ!」
 くぐもった驚愕の声が、覆面越しに漏れる。
 無理もない。
 斬ろうとした目の前の王女が、両手を己の胸の前で合わせ、その掌を床に置いた瞬間。
 夥しい程の青白い光が床から発せられて、まるで生き物のように大理石がうねうねと伸び、侵入者達の両手両足に絡み付いて動きを封じてしまったのだ。
「……どう?エルリック王国の錬金術は?」
 石に捕らえられてしまった者達を見ながら、エドワードは得意気に言い放つ。
「…オレをただの王女だと見くびってた?だったらお生憎さま。エルリック王国の王族は皆、自分で自分の身は守れるように鍛えられてるんだ」
 それが、かの国の王家の方針だ。
 自分の身くらい守れなくて、どうして国を守ることが出来ようか、という。
 その方針ゆえに、エドワードも弟のアルフォンスと一緒に、小さい頃から自己防衛のための体術や錬金術を叩き込まれて育ってきたのだ。今では、下級兵士より遥かに強くなっているだろう。
「…すっごーい、エド!また腕を上げたわね、錬金術の」
 ウィンリィが感心したように呟く。
「…これくらい、初歩の初歩さ。おまえだって、そのうち出来るようになるよ」
 彼女もまた、王族の一員になる予定だ。
 となれば、いずれは王家に伝わる錬金術を学ぶことになるだろう。
「う、うーん…出来るかな?こういうのって、適性とかセンスとかあるみたいだし…」
と、真剣に悩んでいる彼女を見て、エドワードは笑った。
「大丈夫だよ、ウィンリィなら。……さ、早く降りよう。ホークアイさん達に、こいつらのこと言って…」
 エドワードの言葉は、そこで途切れた。
「……エド?」
 中途で話を止めたエドワードを、不思議そうに見つめるウィンリィの身体が、不意に彼の手によって前方に引っ張られる。
「えっ…ち、ちょっと何、エド?」
 反動で階段の踊り場に座り込んでしまったウィンリィが見たのは。
「――――エドっ!」
 ウィンリィを押しのけて、彼女のいた場所に立つエドワードが。
背後から音も立てずに襲い掛かってきた新手の侵入者に、背中から剣で斬られる瞬間だった。
「エド……っ!」
 斬られた反動で、ウィンリィのいる踊り場まで転げ落ちたエドワードを、咄嗟に彼女は抱きと止める。
「エド…エドっ、しっかりしてっ!」
 叫びながら、自分の手がぬめるのを感じ、思わず両手を見ると、それは、真っ赤な血で染まっていた。
「――――!」
 すぐさま抱き止めているエドワードの背を見ると、ガウンがぱっくりと綺麗に裂け、夜着が鮮血に染まりつつあった。
「エド…私を庇って…?」
「ウィンリィ…にげ…ろ…」
 痛みのために切れ切れに呟くエドワードの言葉に、ウィンリィは首を横に振った。
「あんたを置いて逃げられるわけないじゃない!」
「いいから…逃げろ…っ!奴等の狙いは、オレだ…」
「尚更逃げるわけにはいかないわよっ!」
 ウィンリィは叫ぶ。
 自分だけ逃げるなんて、そんなことが出来るわけがない。
 自分は、エドワードを守るために、支えるためについてきたというのに、守られて逃げるなんて、絶対に出来っこない。
「アルと約束したんだもん!エドを守るからって!」
「…馬鹿……っ!」
 痛みに顔を歪めて、エドワードは呟く。
 将来の王妃を、こんな他国で死なせるわけにはいかない。快く婚約者である大事なウィンリィを送り出してくれた、弟のアルフォンスのためにも、彼女は絶対に守らなければ……!
 そうやって、二人が言い合っている間にも、エドワードを斬った輩は二人にゆっくりと歩み寄ってきた。
 そして、覆面の中からくぐもった声で楽しそうに言ったのだ。
 エドワードの血で濡れた、剣を振りかざして。
「……大丈夫だ。二人仲良く死なせてやるからな」
 楽しそうな声で宣言し。
「…ウィンリィ!」
 痛みを堪え、もう一度彼女を庇うために突き飛ばそうと腕を伸ばした瞬間。

 一発の銃声が響き渡る。

 何が起こったのだろう?
 エドワードとウィンリィが同じ事を思った時に、今まさに、二人を斬ろうとしていた侵入者が、剣を振りかざしたままの体勢で、ゆっくりと倒れてきたのだ。
「――――っ!」
 激痛が背中を走るのにも構わず、エドワードはウィンリィと一緒に、倒れてくる侵入者の身体から逃れようと踊り場の隅に転がる。
「エドウィナ姫……ウィンリィさん!」
 階段を上がってくる足音と共に姿を見せたのは。
「ホークアイさん…!」
 銃を手に持った、リザだった。少し遅れて、数人の部下もついて来ている。
「遅くなって申し訳ありません!階下の侵入者を片付けるのに手間取りました…」
「…じゃあ、もう下には…」
「我々が全員、捕獲しています。後はこの場にいる者達だけかと」
「そ…うですか…」
 やっとウィンリィは、緊張の糸が解けたかのように、安堵の息を吐く。
 しかしすぐさま我に返って、傍らに倒れ伏すエドワードを呼んだ。
「エド…エド!しっかりして…」
「エドウィナ姫…?」
 低く呻くだけのエドワードにリザは視線を向け、すぐさま驚愕に目を見開く。
「この傷は…!」
「こいつに斬られたんです!私を…庇って…!」
「ひどい傷…!すぐに止血して治療しないと…!」
「ええ。私が診ますから…」
「ウィンリィさんが?」
「はい!私、外科医としての勉強もしました!だから…!」
 自分に治療させて欲しい。
 彼女の瞳は、そう懇願していた。
「…どっちにしろ、ここには医師がいないから…」
「じゃあ……!」
「一刻も早く、傷を塞がないといけないから、あなたにお任せするわ」
「――――ありがとうございます!」
 ウィンリィは大きな声で礼を言うと、リザに頭を下げた。
「礼を言うのは後。とにかく、姫様を安全な場所に連れて行って、手当てをしないとね」
 と言いながら、リザはゆっくりとエドワードを抱き起こす。それをウィンリィが手伝った。そして、ついてきた部下に、消火の指示を出してから、未だ煙が燻っている離宮から脱出するべく、階段を降り始めた。