走っていた。
闇雲に。
目指す場所もなく、ただ走っていた。
死なないために。
殺されないために。
助けを求めるわけにはいかなかった。
自分を助けてくれる者など、この場にはいないから。
「―――いたか?」
「いえ、こちらには…」
「早く探し出せ!ここはもう、エルリック王国の領内だ。この国の者に見つかっては面倒だからな!」
「はっ!」
近くで聞こえていた声と足音が遠ざかるのを確認して、やっと全身から力が抜けた。
「…これで少しは時間稼ぎができたか」
呟き、右腕の傷を見る。
「…結構深いな」
刃物で斬られたそこはぱっくりと開き、血が流れ落ちてどす黒くなっている。
「まずは…血を止めないと…」
ロイは、呟き、逃走中にぼろぼろになってしまった上着を脱いで、そのちぎれかけた袖で強く傷口の上部を縛る。
「これでまずは…」
止血は完了。
「後は…傷口を塞がないと…」
ぽつりと呟いた。
大木の、虚の中で。
突然のことだった。
国境の地方都市で、季節外れの豪雨があり、かなりの被害が出たという報告を受けて、ロイは現状を把握するために赴いた。
それが、病床に臥せっている現皇帝、伯父の依頼だった。
ロイは快く引き受け、その視察も滞りなく済み、後は報告書を携えて首都に戻るだけだというその日。
その都市に滞在する、最後の日に、それは突然起こった。
帰り支度も済ませた夜半。
ロイは突然、何ものかに襲撃された。
単に視察、それも国内だったので、護衛も特につけていなかったのが災いになってしまった。
多勢に無勢。
人数だけは揃えていた奴等と対等に渡り合えるわけもなく、ロイは反撃をしつつも、逃げざるをえなかった。
その日、一日中雨が降っていたことも災いした。
ロイは、途中で手傷を負いながらも懸命に走り、森の中へと逃げ込んで、咄嗟に大木の虚に隠れたのだ。
幸い追っ手は、その虚の存在に気づくことなく走り去っていったのだが……。
「…いつまでも、このままではいられないな…」
探しても見つからなければ、またここへと戻ってきてしまうかもしれない。そうなれば、この場所も見つけられてしまうかもしれないのだ。
だが、今の自分の状態で、右も左も分からぬ森の中を歩くような無謀な真似も出来なかった。そんなことをしたら、彼らに見つからなくてもいずれ野垂れ死んでしまうだろう。
「…さて、どうするか」
ロイは小さく溜息をついて、虚の外をそっと見る。
既に雨は止んでいた。
夜明けを迎え、森の中も明るくなっているが、ロイはまだ外には出られなかった。
「…全く。雨さえ降らなければ、こんな所に逃げ込むことなどなかったものを…」
と忌々しげに呟き、そっと上着のポケットから何かを取り出す。そしてそれがまだ湿っていることを確認し、上着の上に置いた。
「…これが乾くまでは、動けないな」
それまでは、ここでじっとしているのが得策だろうと思い直し、ロイは外に注意を払いながらも考えていた。
(……私が生きていると迷惑な奴等か。今回の刺客の主は…)
その可能性がある人間を思い浮かべて……数の多さに溜息をついた。
(こんなにも…疎まれているであろう人間が多いとはな…)
その最たる原因は、ロイの人格や能力ではなく、偏に『血筋』故のことだろう。
『血筋』
現国王に、最も濃い血を持つ人物だから、命を狙われたのだ。
自分が、後継者に最も近い位置にあるから。
現皇帝には、子供がいない。
皇妃は早くに病没し、生まれながら病弱である皇帝には、跡取りとも言えるべき直系の子供はいなかった。
それ故に、ロイは皇位継承権第一位の位置にいるのだ。
現皇帝の実の妹の息子。
つまり、伯父と甥の間柄であるがために、周囲の王族達からは嫌われてしまっていた。
もしロイがいなければ、皇位が遠縁である自分達の手に入るかもしれないと考える輩達からは。
今回の暗殺事件は、その中の誰かが指示したものなのだろう。
彼等にしてみれば、またとない好機だったに違いない。
ロイを葬ることの出来る。
「…全く、浅ましいことだ」
溜息をついて呟く。
この国を率いていく能力のないものが、皇帝についてどうなるというのだ。国内を混乱に落とし、国力を弱めるだけのものなのに…。
それでも、権力とやらに憧れるのだろうか。矮小な、目の前の欲望のみしか目に入らない奴等は。
ロイは、そんな連中を嫌っていた。
幼い頃に母を失くした彼は、その後ずっと、伯父である皇帝の傍で生きてきた。
だから、よく『見えた』のだ。
一応皇帝と崇めている奴等が、実の所病弱な皇帝を軽んじて見ていることが。
そしてその事を、当の皇帝自身も知っていたが、何も言うことはなかった。
ただ、黙って聞き流しているだけ。
そんな鷹揚な態度を、ロイは一度だけ諌めたことがある。
『…皇帝ならば、彼等を罰することも出来るでしょうに。どうしてただ聞かない振りをしているのですか?』
だが、その問いに対しても、彼は微笑んで答えたのだ。
『―――私には、彼等に対抗できる力がないからね』
『ですが……!』
『だが、私にも出来る唯一のことがある。それは、君の盾となることだよ』
その言葉を聞いた時、ロイは愕然とした。
皇帝は、知っていた。
自分のことを、よく分かっていた。
病弱で、殆ど寝たきりのような状態の自分。
直系の跡継ぎもいない自分。
そして、補佐してくれる有能な臣下を持たない自分を。
知っているからこそ、他の皇族達の暴言を黙って聞き流しているのだ。
彼等には言いたいことを言わせておいて、その不満をある程度解消させて、他のことに興味を引かせることを阻止してくれていたのだ。
皇帝に近しい存在であるロイを、庇ってくれていたのだ。
『……あなたは…』
近くにいれば、よく分かる。
この人は、決して愚鈍な君主ではない。
むしろ先のことがよく見えている、聡明な人だ。
身体がもう少し丈夫でさえあれば、賢帝として国民からの尊崇を集めることが出来たであろうに…。
小さい頃から傍で優しく育ててくれた伯父の、本当の姿を分かってもらえないのが、ロイには悔しかった。
『……そんな顔はするな…』
ロイの考えていることなどお見通しなのか、皇帝は笑う。
『…私にはとうとう子供が出来ずじまいだったが、その代わり、おまえを得た』
『―――陛下…』
『妹に、感謝せねばな。おまえという有能な跡継ぎを残してくれたことに…』
『……陛下、それは…っ!』
ロイは息を飲む。
『…今はまだ、公には出来ぬ。だが、私の後は、君だと決めているよ。君しか、この国を統べて行くことは出来ない』
だから、と皇帝は病床の中、声を振り絞って話しかけた。
『私が盾となっている間に、一人でも多くの仲間を作っておきなさい。ヒューズ公爵のように、何もかも信頼できるような仲間を…。その者達が、いつかきっと、君を支えてくれるだろう』
『陛下……』
『それと…君の隣に立って、君を…国を支えてくれる、大切な伴侶もね』
それらが見つかるまでは、自分は隠れ蓑になっていよう。
他の皇族達が気づかないように。
皇帝の最も近くにいる、次の皇帝の存在を。
『それくらいなら…私にだって出来るからね』
と弱々しく笑いながら、それでもきっぱりと皇帝は言い切った。
皇帝はその後も、配下になる皇族達に好き放題に言わせておいた。
彼等を咎めようとせずに、放っておいた。
そして彼等は、他に嘲る対象がいると、それ以外には目が行かなかったようだ。
だがそのお陰で、彼等は、ロイという存在を気にかけようとはしなかった。
ただの皇帝の甥、としか認識していなかったようだ。
その間に、ロイは着実に信頼できる仲間を増やし、静かに力をつけていく事が出来たのだ。
「――――だが、中には多少賢い奴もいたというわけか…」
ロイは虚の中で外の様子を監視しながら、呟いた。
ロイの実力をどこまで知っているのかは定かではないが、恐らく皇帝の地位に就くためには邪魔となる人物だという認識くらいはしているのだろう。
そう考えた奴が、今回の視察を好機と判断し、刺客を送り込んできたのだ。
「…雨が降ったのは、全くの偶然だが…。奴らには好機だったな」
そして、自分にとっては悪いタイミングであった。雨さえ降らなければ、例え大勢で襲ってきても、こんな所で隠れずに済んだものを…。
そう、彼等は知らないはずだ。
ロイの持つ、『力』のことを。
知っているのは、現皇帝とヒューズくらいだ。
知っていたら、こんな無謀な襲撃はしなかっただろう。
雨降りが偶然の好機としてくれた、無謀なことは。
「さて……」
外は既に夜が明けて、かなりたつ。
森の中にも、太陽の光が差し込んできて、その姿をロイの目にも見せてくれていた。
気配から、この近くに刺客達はいない。それだけはわかる。
「これを早く乾かすのには、日の光が良いのだが…」
『それ』を見て独り言を漏らすが、今はまだ出て行けない。
今出て行って、彼等に見つかろうものならば、それこそが命取りだ。
「―――もう少しここで…時を稼ぐか…」
悔しいが、丸腰の自分では今は勝ち目がないことくらい、ロイにも十分分かっていた。そして、無謀な戦いで死ぬことが、何よりも愚かしいことだということも。
今は黙って、好機を待つしかなかった。
そう結論付けて、少し身体を休めようと、虚の木の壁にもたれかかろうとした時のことだ。
「―――そこにいるのは、誰?」
澄んだ声と共に入ってきたのは。