イーストシティの恋人 9  

「――――この報告書は、このままでいいだろう」
 翌朝、ロイは迎えに来たハボックに、昨夜目を通し終えた書類を手渡す。
「ありがとうございます。――――ところで」
 書類を確認し終えて、ハボックはおもむろに口を開いた。
「何だ?」
「昨夜、リビングルームに置いていたものは、中を見られましたか?」
 そう言うハボックの顔には、苦笑が浮かんでいる。
「ああ、あれか。中を見て、全部食べたぞ」
「あのケーキを全部、食べたんすか!」
 意外な答えが上司の口から出て、ハボックの目は丸くなった。
「社長、確か甘いものは…苦手な筈だったのでは…」
「苦手だと分かっているなら、送ってこさせるな」
「―――オレが言って、止められるとでも?」
「……思わんな」
「でしょう?だから諦めてくださいって。でも食べたんですね、あれ…」
 頑張りましたね、と労うハボックをジロリと一瞥し、ロイは玄関へと向かう。その後を、慌ててハボックは追いかけた。
「私が食べたわけではないぞ、あれを」
「――――あの、どういうことですか?」
 訳が分からなくて、尋ねる
「あのケーキを食べたのは、ここに来ている女性だ」
「ここに来ているって……ああ、あの子ですか?家政婦の」
 その言葉に、黙って頷く。
「あの子と、やっと会ったんですね。……それで、昨日はどうでした?」
「クビになると困るから、おまえの指示通りにきちんとしていたぞ。この分なら続けさせても構わない」
 玄関を出て、前に待機させておいた車に滑り込む。
 続いて、ドアを閉めたハボックが、運転席に乗り込んだ。
「そうですか。なら、良かった。事情があるみたいですからね、あの子。クビにしたら可哀想だな…って思ってたんですよ」
 と、ニコニコ嬉しそうに笑顔を作って答えた男は、エンジンをかけてから後部座席に顔を向け、ロイに1冊のファイルを差し出した。
「――――何だ、これは?」
「それは、晩餐会に招かれている、マレー氏に関する身上調査をまとめたものですよ。目を通されていたほうがいいかと思いまして」「…ああ、すまない」
 ロイがファイルを開いたのを確認して、ハボックはゆっくりと屋敷から車を出す。
「ところで、同伴される人は見つかりましたか?」
「いや、まだだ」
「どうするんすか?晩餐会まであと3日しかないんですよ」
「そうだな……」
 ロイはファイルをめくりつつ、呟く。
「ほぉ…マレー氏の奥方は、ここ東部の出身か…」
 彼の目は、マレー氏の妻のプロフィールで止まる。
「ええ、そうみたいですね。何でも生まれはリゼンブールという村で、幼い頃はそこで暮らしていたとか。イーストシティに来たのは、大人になってからのことらしいですよ。そこでマレー氏と出会い、結婚したみたいですね」
「……リゼンブール出身…?どこかで聞いたような…」
 その村の名前に、聞き覚えがあるような気がする。
 ロイは記憶の糸を手繰り寄せ始め―――――



『だっ…誰が成長しきっていないチビの田舎女だっ!リゼンブール出身を舐めるなよ!』



 この言葉を聞いたのは、昨日の夜のことだった。
 確かに彼女は、怒りながらそう叫んでいた。
「ああ……そうだ。彼女が確か、リゼンブールの出だと…」
「……社長?」
 後ろでブツブツ呟いているのを不審に思ったハボックが、自分の上司を呼んだ直後。
「―――ハボック。会社に行く前に、寄って欲しいところがある」
「は……?それはどごですか?」
 突然、行先変更を命ぜられたハボックは、きょとんとしながらバックミラー越しにロイを見た。
「晩餐会の同伴者に適任の女性を、見つけたんだ。すぐに交渉するぞ」
「分かりました。それで、どちらへ向かえばよろしいんで?」
「ああ、それはだな―――――」
 ロイは、晴々とした顔になって、ファイルをシートに放り投げ、運転手を務めているハボックに、行き先を告げた。





「さて、と。今日も1日頑張りますか!」
 寮の玄関から出たエドワードは、そう呟き伸びをする。
「うーん、いい天気!」
「今日は、やけにのんびりとしているな?授業はないのか?」
「あるよ。だけど2時間目から受ければいいから、ゆっくり出来るんだ」
 と、傍で問われて、すぐさま答える。
「―――え?」
 そこで、はた、と気付く。
「今聞いたの、誰?」
 何だか聞き覚えのある声だったので、恐る恐る自分の横を見てみると。
 そこには、昨夜から嫌というほど見ている人物が立っていたのだ。
「うわっ……!」
「何も、そんなに驚くことはないだろう。お化けでもないのに」
 エドワードの隣に、いつの間にか立っていたのは、ロイだった。
 1日ですっかり見慣れてしまった、整った顔がすぐ隣にあって、自分を見ていたのだ。
「こんな所にいる筈のない人間が、いきなり立っていたら、誰だって驚くさ。――――ところで、どうしてここに?オレ、自分が寝た部屋は、出る前に綺麗にしといた筈だけど」
 学校もあるので、どうやらまだ眠っているようだったロイには、挨拶をせずに出てきてしまった。一応、帰ると書いたメモを置いては来たのだが、それだけだとまずかっただろうか…とエドワードは不安になる。
「ああ。君に頼みたいことがあって、来たんだ」
「頼みたいこと?家政婦の仕事でか?」
「いや。それ以外でだ。だからこれは、家政婦としての契約外の仕事ということになるから、当然のことだがその見返りは十分にするつもりだ」
「見返りって…?」
「何でもいいぞ。報酬のアップでも、宝石を買ってくれ、でも」
「…そんなに、オレにとっては好条件を出してもいいのか?…それとも、ひょっとして…やばい仕事?」
 エドワードは、何となく警戒してしまう。
「仕事は簡単だ。私と一緒に、とあるお屋敷で催される晩餐会に行って欲しいんだ。同伴者として」
「……たったそれだけ?それだけで、こんな破格の条件を出してくれるのか?」
「訪問先は、重要な取引相手となるかもしれないからな。相手に好印象を与えることによって得る、我が社の利益は莫大なものとなるだろう」
 だから、来て欲しい。
 ロイはエドワードに、熱心に頼む。
「――――そんな大切な人のところに、オレが一緒に行ってもいいのか?」
 エドワードは、不安だった。一緒に行って、もし粗相でもして、取引自体がなくなってしまうことになったらと思うと、簡単に引き受けることは出来ない。
 しかし、ロイは。
「……君じゃないとダメなんだ。いや、君だったら、きっと取引は成功する」
 そう、自信を込めて言う。
「君はただ私と一緒に行って、晩餐会で私の隣に座っていてくれればいい。相手に、話しかけられたら答えてくれ。……テーブルマナーは、知っているか?」
「学校で習ったくらいは……」
「それくらいで十分だ。では、引き受けてくれるか?」
「隣に座って、食事すればいいんだな?」
 念を押すエドワードに、ロイは頷く。
「そうだ」
「なら…やってもいい」
 エドワードは頷き、答えた。それを見た途端にロイは、破顔して喜ぶ。
「すまない。では細かい打ち合わせは、学校が終わった後、私の家でしよう。――――だがその前に、君からの条件を聞いておきたい」
「条件って……何でも聞いてくれるのか?」
「勿論だ」
 きっぱりと言ったロイを、エドワードは見上げたまま暫し考え…ゆっくりと口を開く。
「―――なら、アパートの家賃分、給料に上乗せしてもらえないかな?」
 そうしたら、自分は寮を出ることが出来る。
 寮で、肩身の狭い思いをしなくても済むのだ。
「……それだけで、いいのか?」
「は?」
「家賃分、上乗せだけでいいのか?」
 確認するようにロイが重ねて問うので、エドワードは慌てて頷いた。
「あ、ああ、いいよ。生活費は学校から出るし、バイト代もあるから。住むところだけ確保できれば十分だ」
「そうか。…家1軒欲しいと言っても、全然構わなかったのだが…」
「ええええっ!」
 目の前の男が、本気で呟いているのを聞いて、エドワードは目を丸くして驚く。
……それなら、そう言えばよかった!」
「何か言ったか?」
「いいえ。何でもございません…」
 がっくりと肩を落として呟く。一度言ったことは撤回出来ないし、しようとも思わない。ただほんの少し、残念だと思ったことは、紛れもない真実だ。
(…まっ、いいか。家賃だけでも心配しなくて済むのは、ありがたいし)
 晩餐会に同伴するだけの報酬だとしたら、破格なのは間違いない。
「それでは、交渉成立ということで。詳しい説明は、後でまたしよう。今日は、学校が終わったらすぐに私の家に来るように。いろいろ、準備することがあるからな。…ああ、私も、戻っておくようにする」
「―――分かったよ」
 まだ幾分か不安なものの、引き受けたのだから仕方がない。
 エドワードは、ロイの言葉に頷いた。
 それを見たロイは、満足そうに微笑むと、
「―――では、また後で」
 と言い置いて、待たせていた車に乗り込み、去って行った。



 その車が走り去るのを、ぼんやりと眺めていたエドワードは。
 車が見えなくなる頃に、ぽつりと呟いた。




「あいつ……たったこれだけのことを言うために、までわざわざ来たのかよ?」

 ほんの少し、呆れたような口調で。