イーストシティの恋人 6  

「はあ……」
 エドワードは、盛大に溜息をついた。

「―――今日は厄日かよ…」
 続いて口から出てくるのは、ぼやき。
 肩を落としてとぼとぼと、夜に変わりつつあるイーストシティの通りを歩いていた。
「……ま、原因はオレにもあるしなあ…」
 そう、当人が呟くように、今日の厄日を招いたのは、他ならぬ自分自身であることの自覚はあった。
 まず、厄日となった第1のきっかけが、それだった。




 学校の授業が終わって、いつもの通り家政婦の仕事をするべく屋敷へと向かったところ。
 普段は無人のその場所に、今日はハボックが待ち構えていたのだ。
 そして彼は、雇い主である社長が、エドワードの働きぶりに非常に不満を持っていることを告げた。
「…社長は、自分のプライベートを荒らされるのが大嫌いな人だからな。過度なお節介はせずに、言われた通りのことを、きちんと正確にするようにしろよ」
 と言い置いて、ハボックは細かく『してはならないこと』をエドワードに話す。
 そして、最後にこう付け加えた。
「本当は、即刻君の事をクビにしろと言われたんだが…。オレも君に、細かく注意事項を言ってなかったからな。それを説明して、今度だけは厳重注意だけで済んだよ」
「……あ、ありがとうございます!」
 エドワードは深々と頭を下げる。
 今、この仕事を失うわけにはいかない。
 せめて、アパートの家賃代くらいは稼がないと、本当に路頭に迷ってしまう。
「―――ま、これから注意してくれれば、何も問題はないよ」
 そう言い置いて、ハボックは本来の仕事へと戻って行った。
 その後、エドワードは真面目に家政婦としての仕事をこなし、これまでよりも早めに屋敷を出ようとしたところ……第2の災難が待ち受けていた。
「よりにもよって、自転車がパンクしちまうなんて…」

 帰ろうとした時に、屋敷の玄関脇に置いていた自転車の後部車輪が、パンクしていたのだ。
 それは、自分で直せる筈もなく、エドワードは仕方なく寮に帰る途中の自転車屋に立ち寄り、修理を頼んで徒歩で帰路につく羽目になった。
「…貯めていたチップは修理代でパア、だ」
 エドワードはぼやき、再度溜息をつく。
 自転車は、明日の夕方には直るのだが、取りあえず明日1日は徒歩で仕事に向かわなければならない。
 学校の寮から屋敷までは、歩いて行けない距離ではないのだが、いつもの倍は時間がかかってしまう。
 それに。
「今日と明日、ご飯はなしかぁ…」
 いつもは、屋敷に置いてくれているチップで、何とか日々の食事にはありつけた。だがそれすらもない今は、パン1個すらも買えない。
「次の生活費が出るのは…3日後だから…」
 憂鬱になりつつ、指折り数える。
 とりあえず今月分の生活費が出れば、食費は何とかなる。それと、家政婦としてのお給料を加えて、新しくどこか安アパートでも借りようとエドワードは考えながら、通りを歩き続けていた。
 考えることで、さっきからぐうぐう鳴っている腹の虫を誤魔化そうとしつつ。


 だから、気付いていなかった。


 自分の歩いている場所が、どこなのかということに。



「……あれれ…?」
 気付いたのは、暫したってからのことだった。
「ここって…どこ?」
 立ち止まり、辺りを見回すが、エドワードには覚えのない場所に、いることだけしか分からなかった。
 しかし、そこがどういった類の場所か、ということだけははっきりと分かる。 
 
 とっぷりと日も暮れたというのに。
 通りは、ひっきりなしに人や車が行き交い。
 建ち並ぶ建物は、派手なイルミネーションをつけた看板が、煌びやかに輝いて、ここに来る人々を招き入れている風でもある。
「ここは………歓楽街?」
 都市には、そういった人々の欲望を飲み込むための場所があることくらい、エドワードも知っていた。
 だが、知っていただけで、来ることはなかった。
 毎日毎日勉強で忙しかったし、第1こんな場所に来れるような金も持ち合わせていない。
 ただ、存在だけは知っていた場所に、今自分は足を踏み入れてしまったのだ。
「やば……どうしよう…」
 派手派手しい照明の下で、艶かしく化粧を施した女性達が、通りを行き交う男達を誘う様子を見て、エドワードは焦った。
 こんな、人の欲望が渦巻く場所は、危険だ。
 しかも今自分は、たった1人なのだから。
「早く、ここから出よう」
 と、呟くやいなや、踵を返してこの艶やかな、しかし危ない空間から立ち去ろうとした時のことだった。
「―――――えっ?」
 いきなりグイッと右腕を引っ張られたのは。
「……な、何?」
 びっくりして引っ張られた腕の先を見れば、そこには見たこともない男がニヤニヤ笑いながら立っていた。
「あ、あんた……何するんだよっ!」
 頭頂部が薄い、太った中年男が、エドワードの腕を掴んだまま離そうとしない。その男は、舐めるような目つきでエドワードを見つつ、口を開いた。
「何って……ここで立っている女に対して要求するのは、たった1つのことだろう?」
「ここに立ってるって……」
「1晩、いくらだ、綺麗な金髪のお嬢さん?滅多にいない上玉だから、望み通り払ってやるぞ」
「なっ………!」
 エドワードは、男の言っている意味が分かって、愕然とする。
 自分は、街娼に間違われているのだ。
 それも仕方ない。
 荷物も持たず、通りに立っていて、しかも――――
(この格好だもんな…)
 自分の服装を見て、納得した。
 超ミニの黒のスカートに同色のタンクトップ。その上には一応ジーンズのジャケットを羽織っているものの、結構肌の露出は高い。
 普段の自分なら、絶対にこんな格好などしないのだが、生憎手持ちの服は洗濯していて、仕方なく学校の同級生の1人に借りて着ていたのが今の服だった。
(……だから、こんな服は嫌だって言ったのに!)
 とは思うものの、その同級生が、こういったデザインの服を好むのだから、違ったものなんてないし、エドワードも背に腹はかえられず、仕方なしに着ていたのだが……。
 まさかこんな弊害があるとは、借りた当人も思いもよらなかった。
(と、とにかく、この事態から逃れないと!)
 街娼に間違われるなんて、真っ平ごめんだ。
「オレは、迷ってここに来ただけだ!商売なんてしてない!」
「ほぉ…そんな格好をして、ただ迷っただけだと?冗談が上手いね」
「だから、本当に娼婦じゃないって言ってるだろ!」
 さっきから腕を掴んだままの男は、一向にエドワードの言うことを信じようとはしなかった。
「わかったわかった。じゃあ、今夜1晩でこれだけ出そう。だったらどうかな?」
 と言いながら、その男は片手で背広の内ポケットから札束を取り出す。
 それは、エドワードの生活費のそれこそ何倍にもなりそうなくらいの金額だった。
「だから、オレは、身体売ってるんじゃないってさっきから言ってるだろ!」
 とうとう、エドワードは本気で怒り出した。
 確かに、男の提示した金は、今の一文無しのエドワードにとっては、一瞬…ほんの一瞬だけ魅力的なものだった。
 だが、すぐさま、そのお金と引き替えに自分の身を売るなどとんでもない!、と思いなおしたのだ。
(…オレは、そこまで落ちぶれちゃいない!)
 こんな所で身を落としては、国家錬金術師になるために努力し続けた今までが、全て無駄に終わってしまう。
 それだけは、何としても阻止したかった。
「いい加減、この腕離せよ!オレは娼婦じゃないんだからっ」
 エドワードは力の限りで、男の太い腕を振り払おうとした。
 その時。
「――――あっ!」
 男の掴んでいた手が、一瞬離れた途端。
 その反動で、エドワードの身体は車道へと放り出されて。
 丁度タイミング悪く、今まさにその傍を通り過ぎようとした車に接触してしまったのだ。
「――――――っ!」
 急ブレーキの軋む音が、通りに響き渡った直後。
 エドワードの身体が、車のサイドミラーに当たり、彼女の身体は再び歩道へと投げ出される。
「い……痛ぁ……」
 投げ出された表紙で、あちこち擦りむいたらしい。
 じんじんと痛む身体をゆっくりと起こしつつ、エドワードは呻いた。
「――――大丈夫か?」
「……なように見えるか?」
 問いかける男の声に、咄嗟に反応して答え、エドワードが顔を上げると。
(……結構若そう…)
 声をかけた男が、立っていた。
 黒髪・黒瞳の、整った顔立ちの男が、エドワードを心配そうに見ている。その身に纏っているスーツは、エドワードが見ても上質のものだと分かった。
「急に車道へ飛び出してきたから、びっくりしたぞ」
「あ……あいつがオレを娼婦と間違えて腕を掴んで…振りほどこうとしたら弾みで……」
と言いながら、諸悪の根源である中年男を指差そうとしたのだが。
「…いない……」
 既に、その場から立ち去っていた。
 トラブルに巻き込まれるのは御免だとばかりに。
「あの野郎…!」
「とにかく、だ。怪我をしているみたいだし、とりあえず病院へ行こう。他に異常があってもいけないしな」
「大丈夫だよ。擦り傷だけだし」
 エドワードは慌てて立ち上がる。
 いつの間にか、騒ぎを聞きつけた人々が、2人をぐるりと囲んでいることに気付いて。
「ならばせめて、自宅まで送ろう。帰るところだったのだろう?」
「え……うん…」
「だったら、家の近くまで行こう」
「でも………」
 エドワードは、まだ躊躇っていた。
 無理もない。
 先刻、男に娼婦と間違われたばかりなのだ。
 送ろうと言う者に対して、警戒心を抱いても仕方のないことだろう。
 しかし、そんな彼女の警戒を知ってか知らずか。
 その黒髪の若い男は、平然と彼女に向かって言ったのだ。
「心配するな。君のような小さい田舎娘に手を出すほど、私は不自由していないからね」
「だっ…誰が成長しきっていないチビの田舎女だっ!リゼンブール出身を舐めるなよ!」
 『小さい』と言われ、エドワードは噛み付く。
 この年にもなって、女性らしくないほっそりとした小さな身体に、多少なりともコンプレックスは抱いていた。
 その、エドワードの起爆装置を、思いっきり男は踏みつけたのだ。
「…文句は、車の中でいくらでも聞こう。いい加減往来の邪魔になってきたから、とりあえず乗ってくれないか?」
 と言われて、男が示した先を見れば。
(すっげ…高級車…)
 イーストシティでも、まだ殆どお目にかかることのない、黒塗りの高級車が、路上で主を待っていた。
(こいつ…ひょっとして相当の金持ち?)
 と思いながら、傍らに立つ男を見ていたエドワードの前で。
 男は実に慣れた仕草で、助手席のドアを開けて。
「さあ、乗りたまえ」
 エドワードをエスコートした。
 まるで、恋人のように。
(……何だか手馴れてて、しゃくだけど…)
 怜悧な顔立ちの男に、そうされるのは悪い気分ではない。
 エドワードは促されるまま助手席へと滑り込む。
 その後男は助手席のドアを閉めて、運転席へと回り。
 ゆっくりと車を発進させて、その場を後にした。 
 


 一連の様子を眺めていた、歓楽街に集う人々をその場に残して。