イーストシティの恋人2 (7)
「完璧に、風邪、ね」
体温計を見ていたリザが、あっさりと結論を下す。
「熱は思ったほど高くはないけど…今夜はもう、暖かくして寝た方がいいわね」
「――――はい…」
若干赤い顔をしたエドワードが、素直に頷く。そのぼんやりとした表情を見ただけで、かなり辛そうだということが分かってしまう。
リザ達が、イーストシティの郊外の道端でようやく彼女を発見した時には、既に熱がある状態だった。そのまま急ぎエドワードのアパートへと連れ帰り、すぐさま着替えさせてベッドに寝かせた。
「本当は、病院に連れて行く方がいいんだけど…」
「いっ…いやっ…いいです!気持ちだけで…こうやって寝てれば治るから…!」
どうしてか、病院に行くのを頑なに拒み続けた。
(病院嫌いなのかしら…?)
嫌だと言うのを、無理強いすることは出来ない。だが薬くらいは飲んでおいた方がいいからと、ラッセルに頼んで買いに行ってもらった。
(薬すら常備してないなんて…切り詰めた生活をしているのね)
と、思いいつつ、リザは室内を見回した。
そのアパートは、二部屋ある、そこそこの広さの、割合新しいものだった。だが、その部屋に置いてあるのは、簡素なシングルベッドとテーブルに椅子、そして小さなクローゼットだけだった。
言うなれば、余りに家具が少なくて、侘しく見えるのだ。
しかし、部屋の隅には所狭しと錬金術に関する本が積まれてあるのを見ると、どうやら奨学金の大半はそれに費やされているのだということは、想像できた。
「でも、彼が持ってきた薬を飲んでも治らなかったら、病院に行きましょうね。風邪は、こじらせたら怖いわよ」
「――――はい…」
渋々という風に、頷いた時。
丁度タイミングよく、ラッセルが戻ってきた。
両手に、大きなビニール袋を携えて。
「はい、リザさん。薬買って来たよ」
「ありがとう。…それにしても、その大きな荷物は何?」
「深夜営業の食堂が開いてたから、いろいろテイクアウトしてきたんだ。薬飲む前に、何かお腹に入れておいた方がいいだろ?ほら…これはリゾットで…」
と言いながら、袋の中から様々な食べ物を出してくる。
「―――そんなに一度には、食べられないよ」
エドワードは、ラッセルの差し出したリゾットを手に取りつつ、苦笑する。
「食べきれないのは冷蔵庫に入れておいて、明日温めて食べればいい。あ、冷たいゼリーとかも売ってから、それも買ったぞ」
次から次へと食べ物を出し、テーブルの上に並べる様を見ながら、エドワードは少しずつリゾットを口に運んだ。
「……美味しい。温かくて」
「そう。食欲があるのなら、大丈夫ね。それ食べたら薬飲んで、ゆっくり寝ること。いいわね」
「は〜い」
リザの指示に素直に頷くエドワードの顔には、笑みが戻っていた。
この分だと、回復も早いだろうと安心したリザは、彼女が薬を飲み終えるのを確認して、部屋を後にした。
「…遅くまで付き合ってくれて、ありがとう。リザさん」
アパートから出た二人は、話しながら通りへと出る。
「いいのよ、気にしないで。私もあの子のことは、心配だったし…」
「リザさんがいてくれて、助かったよ。流石にオレだけじゃ、女の子の部屋には…」
と、照れたように笑いながら、ラッセルは頭を掻いていた。
「そうね…。流石にこんな時間には…ね」
クスッと笑う。
まだ、こんなことでも照れるような年頃なのだ。背は、リザより高くて、大人びた風には見えても。
「…さ、ラッセル君は明日も授業があるんでしょ?少しでも寝ておかないと、きついわよ」
「ええ、そうします」
「私、明日もあの子の様子を見に行ってみるから、心配しないで」
「すみません…」
「あなたが謝ることではないわよ。気にしないで。好きでやってることなのだから」
そうきっぱり言い切ると、ラッセルは安心したように笑い、バイクに乗ってその場から離れて言った。
「―――さて、と。私も帰って、一寝しようかしら」
軽く伸びをして、車に乗り込み。
バックミラーをちらりと見て、車を発進させる。
「…私が帰ったら、ようやく安心する人もいるみたいだし」
その人は、自分が帰らないうちは、その場にい続けるだろう。
「…全く。そんなに心配なら、出てきて見舞えばいいのに…」
いつもの彼なら、何の躊躇いもなくすることを、今は出来ずに、手をこまねいている。その変貌振りは、リザを驚かせるのに十分だった。
「よっぽど、彼女のことが気になるのかしら……」
と言い、再度バックミラーをちらりと見ると。
建物の影に隠れるように停まっていた車は、ようやく動き始めた。
それは、リザも見慣れた車。
その高級車を運転している、黒髪の男も、彼女にとっては見慣れた人物だった。
翌日。
ロイは、オフィスで盛大な欠伸をしていた。
「……寝不足っすか?」
出社してきてから、何度目になるかわからないくらい、欠伸を連発しているので、ハボックは恐る恐る聞いてみる。
「……ああ、少しな」
「そうですか…」
その答えで、だから朝から不機嫌なのだと、無理矢理納得することにした。
それ以上深く突っ込んで、藪蛇にはなりたくない。
(―――昨日のパーティーで、何かあったのかな?)
行く前の様子からでは、マレー氏との契約成立は目前だと、ロイは自信ありげに言っていた。それが一夜明けた今は、契約に関しての話をちら…とも言わない。
(…ひょっとして、失敗したとか?)
もしそうだとしたら、大変だ。会社は、相当のダメージを受けることとなるだろう。
せっかく会長から、本社へ戻るよう勧められているのに、こんなことで支社の業績が落ちてしまっては、戻るに戻れなくなってしまう。
(…もしそうだとしたら…社長は一体どうするつもりなのか…)
と、思いつつ、目の下にくまを作って、不機嫌な顔をしているロイを窺い見ていたハボックの机上の電話が、突然鳴った。
「……はい、社長室…。あ、はい!おります。…はい、はい、少々お待ちください…!」
受話器で話しているハボックの表情が次第に硬くなり、誰からかと思い始めたロイに向かって、ハボックは言った。
「―――社長、テオドーラ・マレー様からです」
名前を聞いた途端、ロイの眠気は一気に飛んだ。
「…繋いでくれ」
すぐさまそう言い、自分の目の前にある受話器を手に取った。
「…はい、マスタングです」
『…おはようございます。テオドーラ・マレーです』
穏やかな声が、受話器越しに聞こえてきた。
「マダム……昨晩は本当に失礼を…」
内心驚きつつも、一応昨日の非礼を詫びる。
まさか、昨日の今日で、彼女の方から電話をかけてくるなど、思ってもみなかったから、驚いていた。
『…私の方こそ、カッとなって…失礼をしましたわ』
「いえ…当然のことです…」
『それで…先日の契約の件ですけど…。夫とも話をしましたが、お受けしますわ』
「えっ……」
ロイは思わず息を呑む。
『こちらは、契約書にいつでもサインをしますから…準備が出来たら、いらしていただけないかしら?』
「ええ…!それは喜んで…早速準備して、伺わせていただきます!」
どうやら、自分の聞き間違いではないことが分かり、ロイは一層表情を引き締めた。
『そう……。では、お待ちしていますわ』
「あっ、あの…マダム!」
用件が終わり、電話を切ろうとしたテオドーラを、慌ててロイは呼び止める。
『―――何か?』
「どうして…契約を再考していただけたのでしょうか?その理由を聞いてもよろしいですか?」
自分は、彼女達に嘘をついていた。
そのことが発覚し、マレー夫妻を不愉快にさせたのだから、当然取引はご破算になるものと思いこんでいた。だが一日もたたないうちに、不愉快になったテオドーラの方から契約したいと言ってきたのだ。
そこにはきっと、何か理由がある。
そう、ロイは結論に達して、彼女に問うた。
すると、テオドーラは。
暫しの間を置いた後に。
『――――もし、あのお嬢さんにお会いすることがあったら…私が詫びていたことを伝えていただけないかしら。そしてありがとうと言っていたことも…』
「それは…どういう…?」
彼女の言う『お嬢さん』というのは、恐らくエドワードのことだろう。
(彼女が…関わっているのか?)
確か昨夜、彼女は車から降りた後、マレー邸の方へと歩いて行った。
そのことが、彼女の心境の変化をもたらしたのだろうか?
『私が言いたいことは、それだけですわ。…では、契約書の件、よろしくお願いしますわね、マスタングさん』
だがテオドーラは、それ以上真相については何も言わず、電話を切った。
「…どういうことだ?」
「社長、例の契約のことですね?一体…」
「マレー氏が、契約書にサインすると言ってくれた。早速準備を始めてくれ」
「わっ、分かりました!」
ハボックはパッと明るい顔になり、慌ただしく動き始める。
何はともあれ、仕事が順調に進むのは良いことだ。
これで、自分達が本社に戻れる日も近くなるだろう。
ハボックはそう考えながら、てきぱきと仕事を再開していた。
だが、そんな嬉しそうに仕事を進める部下とはうって変わって。
社長の椅子に座っていたロイは。
(…何があったんだ…)
と、考え込んでいた。
自分が知らない間に、エドワードが何かしたのだ。そのことでテオドーラの怒りは静まり、契約しようと決意してくれた。
(一体彼女は何を……?)
考えても、一向に分からない。思いつかない。
しかし、彼女に助けられたのは、事実だ。
そう、心の内で悶々と考え込んでいるうちに、ハボックは、あらかじめ用意していた契約書を整えて、ロイの前に差し出した。
「はい、社長。こちらが契約書です。後は、マレー氏にサインしていただくだけになっていますが」
「――――分かった。行こうか」
ロイは、契約書を再確認した後に、席を立つ。
とにかく今は、この契約を成立させることが先決だ。
その後で……テオドーラに詳しい事情を聞いてみよう。
そして……
(彼女にも…謝らねば…な…)
その時ロイの脳裏には、昨晩別れる際の、涙を浮かべていても、意志の強い瞳で自分を見つめている、エドワードの顔が浮かんでいた。
テオドーラは、受話器を戻した後。
自分の手元に置いてあった、一枚の便箋を再度見つめ、小さく息を吐いた。
そこに書かれていたのは、同郷の少女の、真摯な想い。
急いで書いたのだろう。
走り書きの文字が、便箋を埋めていたが、そこからは書いた人の真剣な願いが、ひしひしと感じられた。
『…奥様には、こんな手紙を渡されても、不愉快に思うかもしれません。婚約者だと嘘をついていたことは、心からお詫びします。
ですが、私は、奥様とお話出来て…本当に楽しかった。リゼンブール出身の方と、イーストシティでお会いするのは初めてで、懐かしくて。奥様とお会いするのは、本当に楽しみにしていました。
そのことだけは…信じてください。
それと…同封しているのは、リゼンブールから持ってきた押し花の栞です。
死んだ母が、押し花を栞にしてくれたものです。
奥様が、リゼンブールの春の、花々が咲き誇る風景が懐かしいと仰っていたので、入れておきます。
それから…これは図々しいお願いだと、重々承知しているのですが、契約の件も、再考していただければ…と思います。
本当に申し訳ありませんでした。
エドワード・エルリック』
テオドーラは、再度手紙を読み直し、傍らに置いてある栞を手に取った。その栞に貼ってあるのは、リゼンブールでは春に咲く、薄紫の可憐な花だった。その花が、牧草地帯に一斉に咲く様がとても美しいと話していたのを、エドワードは覚えていたのだ。
テオドーラは、その栞を暫し見つめていた後。
「―――出来ることなら、また会いたいわ…」
その時は、何のわだかまりもなく、故郷の話をしたい。
テオドーラは、金の髪と瞳の、小柄な可愛らしい少女の顔を思い浮かべつつ、ぽつりと呟いた。
一方、こちらは。
「――――えっ?『特別講座』…?」
風邪を引いたものの、リザ達の言う通りに、早く薬を飲んで、対処したのが幸いしたのか。
二日後には何とか学校に行けるまでに回復したエドワードは、授業が終わった後、シェスカに呼び止められた。
「それって、何、シェスカさん?」
「知らなかったんですか、エドワードさん。毎年春の長期休暇の時に、その年の首席の学生が希望すれば、セントラルでの特別講座を受けることが可能なんですよ」
「その…『特別講座』っていうのは何?」
一応奨学金を貰っている手前、学業だけは頑張っているので、エドワードは入学以来常に学年の首席であり続けていた。だから、こんな話が舞い込んできたのだろう。
「特別講座は、セントラルの本校で行われるんです。講師は、本校の著名な錬金術師の先生や、国家錬金術師です」
「…それは…凄いな…」
エドワードは、シェスカの説明を聞いて、興味がわく。ここの講師も一流の錬金術師だが、本校の講師の比ではないと聞くし、国家錬金術師の教えを受けることもできるというのが魅力的だ。
だが、エドワードには一つ、気になることがあった。
「でも…それってお金がかかるんだろ?」
特別講座だから、きっと別途授業料とかが必要になるのだろう。そうであったら、とてもではないが、エドワードには出せない。
ところがシェスカは、ニッコリと笑って。
「大丈夫ですよ。学年の首席は特別待遇で、授業料・滞在費・その他必要経費は全て、学校が支給してくれるんです」
「行く!絶対行く!」
エドワードは即答した。
「お金がかからないっていうんなら、行く!」
「エ、エドワードさん…」
「第一、セントラルにある本校って、蔵書数も半端じゃないくらいたくさんあるらしいから、一度行ってみたかったんだ!ありがとう、シェスカさん!いいこと教えてくれて」
そう言ってエドワードは、シェスカの手をギュッと握り締める。
「あ……でも、エドワードさん、家政婦の仕事は…?」
確かここで紹介した家政婦を、ずっと続けているのではないかと気づき、尋ねる。
すると、
「ああ、あれは辞めた」
と、実にあっさりとした答えが返ってくる。
「辞めた…って…?」
「ちょっと事情があって…。先日辞表を出したんだ」
と呟くエドワードは、少しばかり寂しそうに笑う。
だが、それも一瞬のことで。
「だけど、辞めておいてよかったあ!これで心おきなく特別講座を受講することが出来る!」
錬金術の勉学の機会を、新たに与えてもらえるのはとても嬉しい。
それに―――
(――――それに、イーストシティから離れられるのも、嬉しいし)
あんなことがあったから、暫くここを離れるのもいい気分転換になるだろう。セントラルならば、偶然顔を合わすこともないだろうし。
エドワードはそう考えつつ、頭の中でロイの顔を浮かべていた。
(なっ…何であいつの顔なんか…!)
すぐにその顔を頭の中から払いのけるように、ブンブンと頭を振る。
(…もう、会うこともない奴の顔なんか…何で思い出してるんだよ!)
そう、会うことはもうないだろう。
家政婦としての仕事は、ハボックに辞表を出してきた。
辞表を出さずとも、恐らくクビになるだろうとは思っていたが、自分らきっちりけじめをつけたくて、辞表を出したのだ。
だがそうしたことは、結果として良かった。
(こうして、何も気にせず、セントラルに行けるんだから!)
「よぉーし!もうあいつのことなんかすっかり忘れて、勉学に励んで、立派な国家理錬金術師になるぞ…!」
そう、学校の事務局の前で宣言するエドワードを、シェスカは呆気に取られて、見つめていた。
そう。
セントラルに行きさえすれば。
エドワードにとって、新たな生活が待ち受けていると。
新たな人との交流もあるだろうと。
期待に胸膨らませていたのだが。
人の縁というものは、なかなか切れないということを。
セントラルで身をもって体験するということを。
『特別講座』を受講出来るという幸運に浮かれている今は、気づく由もなかった。