イーストシティの恋人2  (3  

「えっと……リビングの掃除完了、お風呂もピカピカ。洗濯も……」
 エドワードは、仕事内容のメモ書きを見つつ、確認をしていた。
「よしっ…!今日のノルマ完了!」
 軽く伸びをして、掃除道具の片付けをする。
 その後エプロンを脱ぎつつ、いつものようにリビングルームに置かれているテーブルに向かった。
 いつもそこに、エドワードへのチップが置かれてあるので、それを貰って帰るのが習慣化していたのだ。
 ロイも、毎日忘れずに置いてくれているので、今日もあるものだと思い込み、テーブルの上を見ると。
「……あれ、ない?」
 普段なら目につきやすい位置に置いてあるチップが、この日はなかった。その代わりに置かれていたのは。
「……何、この書類…?」
 書類の束が、無雑作にテーブルの上に置いてあったのだ。
「これって…仕事の書類じゃ…」
 一枚目をざっと見ただけでは、詳しいことは分からないが、どうやらこの家の主の、会社に関する書類らしい。
 いつもなら、そんな重要な書類を置きっぱなしになどしない。今朝は急いでいたのだろうか…と思い、再度書類をテーブルの上に戻そうとした時だった。


「置いてあるものは、動かさないようにと言っておいた筈だが?」


 突然背後から、今のこの時間には聞こえない筈の声がして、慌てて振り向いてみると、そこには。
「あ……ロイ……じゃなくて。お帰りなさいませ」
 この家の主が立っていたので、慌てて書類を置き、一礼する。
「この書類を忘れたから、取りに戻ってみたら…」
 溜息をつきつつ、エドワードが置いたばかりの書類を手に取る。
「いやっ……それは…その…」
「何だね?」
 また、勝手に物を動かしたと思われたら、今度こそクビになってしまうと思い、慌てて説明しようとしたが、ロイに睨まれて上手く言うことが出来ない。
(どうしよう…)
 と、言葉が出てこなくて、エドワードが困っていたところへ。
「そんなに怖い顔をしていたら、話したくても話せませんよ」
 柔らかい声が、ロイの後ろから聞こえてきた。
(え………?)
 驚き、エドワードが声のした方を見ると。
 そこには、金髪をきっちりと纏め上げ、理想的なプロポーションの身体を高級そうな落ち着いた色合いのスーツに包んだ、理知的な美女が立っていた。
(綺麗な…女性…)
 同性から見ても、非の打ち所のない美女だ。その上、仕事もばりばり出来そうな、いわゆるキャリア・ウーマンタイプで、エドワードも一瞬見惚れてしまっていた。
 そんな、完璧に見える女性は、エドワードに歩み寄って微笑みかける。
「大体、あなたがそんな場所に大事な書類を置いておくのが悪いんです。…ほら、彼女も怯えてますよ。あなたがそんなに睨むから」
 と、その女性はそっとエドワードの肩に手を置いて笑いかけ、ロイに対しては厳しい言葉を投げる。
「あ、ああ…。すまない」
 彼女の気迫に気圧されてしまったのか、ロイも今回はすぐに謝った。
 それを聞いて、エドワードはハッと我に返る。
「いっ、いえ!オレはただ…いつもの場所にチップがないから…って」
「チップ……?ああ…」
 エドワードの言ったことに対して、怪訝そうな顔をしたロイは、すぐにテーブルの上を見ることによって理解したようだ。すぐさまスーツの内ポケットから財布を取り出し、札を一枚、エドワードに差し出す。
「今朝はバタバタしていて、置くのを忘れていたんだ。すまなかった」
「いえ………」
 エドワードは小声で呟き、差し出された札を受け取る。
「そ、それじゃ、今日の仕事は終わったので…これで…」
 ぺこりと頭を下げて、エドワードはすごすごと部屋から出て行った。
「―――どうしたんだ?今日はいつもより元気がないな…」
「あなたという人は…」
 エドワードが出て行った直後、ロイが不思議そうに漏らした言葉を聞いて、リザは呆れたように言う。
「普段はとてもフェミニストなのに、彼女に対してはそうじゃないんですね」
「……そうだったか?」
「ええ。少なくとも、あなたがこれまで付き合ってこられた女性に対する接し方とは、随分違ってましたよ」
「そうか…。まあ、あの子はまだ女性の範疇には入ってないからかな?あの子は、単なる家政婦として雇っているだけだよ」
「―――それを聞いて、少し安心しました。あんな年若い女の子にまで手を出す色魔だとは、思いたくありませんから」
「君ねえ…」
 情け容赦のないリザの言葉を聞いて、ロイは乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「ですが、あなたの守備範囲外とは言っても、あの子もれっきとした女の子です。もう少し優しく、接してあげたらいかがですか?」
「そうするよ。君に睨まれないようにな」
 と、まだ睨んでいるリザに言いながら、ロイは書類を手に持ち、再び屋敷から出て行った。





 その時、二人は気づいてなかった。
 リザですらも、気づいてなかった。
 意識していないから、分からなかったのも無理はない。
 特にリザは、エドワードと初めて会ったのだから。




 エドワードが、意気消沈していた理由を。

「あーあ、何でオレ、あんなこと言っちゃったんだろ…」

 自転車を引きながら、とぼとぼと歩きつつぼやく。
 壊れていないのに、どうしてだか自転車に乗る気がしない。
「―――こんなの…なかったらそれでもいいと思ってたのに…」
 ズボンのポケットから、先程貰ったチップを取り出して見ては、溜息をつく。
(あんな…催促なんてするつもりはなかったのに…)
 気づいたら、声に出してしまっていた。
 書類を手に取ったことを怒られて……イライラしていたから?
(……違うと思う…)
 それなら何故…?
(あんなに…優しそうな人に、庇ってもらえたのに…)
「どうしてあんな…反抗的な態度取ったんだろ?」
 優しそうな…綺麗な人だった。
 自分と違って、大人の女性で…頭も良さそうな…。
(きっと…あの人は……ロイの…)
 そこで突然、ツクン……と胸が痛む。
「え……?」
 痛みは続き、胸の内が、もやもやとして気分が晴れない。
「何で……?」
 あの女性と、ロイが一緒にいる姿を思い浮かべると、何故だか気分が落ち着かなくなる。
 あれ程似合いの二人なのに――――
「どうして…だよ…っ?」
 訳が分からなくて。
 パニックになりかけた、丁度その時。


「―――見つけた…!エドワード!」


 突然、名を呼ばれたので、声のした方を向くと。

「…ラッセル?」

 エドワードの前方には、ラッセルが立っていた。走ってきたのか、彼は肩で息をしている。
「どうして…こんなとこに…?」
「そろそろ仕事が終わる頃かと思って、捜していたんだ」
「オレを…?仕事場所が分からないのに?」
 確か、家政婦をしている屋敷は教えていなかった筈だ。
「家政婦雇うくらいの金持ちは、皆この辺に住んでいるからな。うろうろしていたら見つかるだろうと思って」
「―――暇人」
 クスッと笑って呟く。
 口ではそう言ったものの、内心嬉しかった。先刻までの鬱々とした気持ちが、彼が現れたことで少し浮上したから。
「暇人はひどいな。せっかく、一食ご馳走しようって言うのに」
「ご馳走……?」
「そう。オレの伯父さんから、さっき連絡があってさ。今夜一緒に食事でもどうかって。向こうも連れがいるみたいだから、オレも一人連れて行ってもいいかって言ったら、Okだったから」
「その連れって…オレのこと?」
「ああ。夕飯浮くから、丁度いいだろ?」
「でも……」
 エドワードは躊躇う。見も知らぬラッセルの伯父という人に、面識のない自分がご馳走になってよいものか…と。
「気にするなって。伯父さんは、細かいことを気にするような人じゃないから。同じ学校の人だと言ったら、歓迎するってさ」
 だから、とラッセルはエドワードの自転車を取り、引っ張り出す。
「あっ、ラッセル!」
「場所も、気兼ねしないような所だから、気楽にしていいよ。けど、味は保証する」
「―――もう、強引な奴だな」
 そう言って笑いかけるラッセルの後を、エドワードは苦笑しつつ追いかけた。
 その強引さが、何となく誰かと似ているな…と思いつつ。
 それも、続いて何を食べさせてもらえるのか…と考えることによって、すぐに掻き消してしまった。




 しかし。
 どうしてあの時、もっとよく考えておかなかったのだろう…と、後悔するのを。
 先の見えぬエドワードが、知る筈もなかった。





 エドワードが、ラッセルに連れられてやってきたのは。
 イーストシティの繁華街の一角にある、ビアホールのような場所だった。
「ここって…?」
「ビアホールさ。イーストシティの中でも、安くて美味しいと評判なんだぜ」
 入ったことはあるか?とラッセルに尋ねられて、エドワードは首を横に振る。
 ビアホールと言えば、自分のような未成年ではなくて、もっと年上の、大人が行くような店だと思い込んでいたし、第一、お金がなくて、そんな場所で食事をする余裕すらもなかった。
「でも…ラッセルの伯父さんがこんな店に来るなんて、意外だな」
「どうしてだよ?」
「だって、伯父さんって金持ちなんだろ。だったら高級レストランとかを好むのかな…って思って」
 ラッセルの話からだと、彼の伯父というのはかなり上流階級に属する人物だということが伺えた。それなのに、こんな大衆的な店を待ち合わせ場所にするなんて、思ってもみなかったのだ。
「そんなことはないさ」
 だが、エドワードの疑問を、あっさりとラッセルは否定した。
「オレもだけど、伯父さんも今の仕事に就くまでは、割と自由気儘にさせてもらえていたみたいだからな。結構あちこちで遊んでいたみたいだよ。それに、前は軍にもいたから、その頃は部下達とこんな店によく来ていたみたいだし」
「伯父さんって…軍人だったのか?」
「ああ。一年ほど前に退役して、今は会社の経営を任されているけど」
「ふうん……」
 エドワードは、不思議そうな顔をして、ラッセルの話を聞いていた。
 実際、不思議だったのだ。
(以前は軍人で、今は会社の経営者か…。一体、どんな人なんだろ?)
 そんな疑問が浮かんでくる。
「―――ま、その伯父さんには、これから会えるから。取りあえずこんな場所での立ち話は止めて、中に入ろう」
「あっ、ああ」
 ラッセルに促されて、開かれた扉の中へと一歩進む。
 そこは。
「――――大人の社交場、みたいだな…」
 扉の内側にあった光景を見て、エドワードはぽつりと漏らす。
 彼女の目に飛び込んできた、広いビアホールの内部は。
 温かい色の照明に照らされていて、その下に大きなテーブルが所狭しと並べられていた。
 そこでは、老若男女、様々な人達が、ジョッキ片手に陽気に笑いあい、喋り、テーブルに並べられている食事に舌鼓を打っていた。
「―――凄い…な」
 ざわめきに満ちたホール内を眺めていたエドワードは、呆気に取られていた。
 初めて入った場所に満ちる、集まった人々の熱気をすぐ傍で感じて。
 でも、その場にいる人達は誰もが、楽しそうだ。その陽気な雰囲気を見ているだけで、エドワードも何となく心が浮き立つような感覚にとらわれて、少し嬉しくなっていた。
「こっちだ、エドワード」
 エドワードがぼんやりとホール内を見ていたところへ、ラッセルが呼んで、先に立って案内する。
「あ、ごめん…」
 慌てて彼の後を追い、ざわめきが満ちているホール内のテーブルの間を縫って進んだ場所は。
 ホールの奥に位置する、一角だった。入口から正反対の場所に位置するそこは、ほぼ壁際なのだが、その分人の行き来が少なく、幾らかは静かだった。それでも、どのテーブルにも客がいて、このビアホールの人気の高さがよく表れていた。
「あっ、あそこにいた…」
 先を歩くラッセルが、どうやら待ち合わせしていた人物を見つけたようだ。
 彼のその呟きを聞いた途端、エドワードは深呼吸をする。
 いくら、こんな庶民的な場所で会うとはいえ、相手は会社の社長だ。
 やはり、ほんの少しは緊張してしまう。
「…伯父さん、リザさん、遅くなってごめん…!」
 ラッセルが、一つのテーブルに近づいて、挨拶をしていた。だが、丁度彼が陰になって、肝心の『伯父さん』とやらが見えない。
 その間にも、ラッセルの話は続いていた。
「―――紹介するよ。彼女が電話で言ってた、同じ学校の、将来非常に有望な、一学年先輩のエドワード・エルリックさん」
 ラッセルが、自分のことを紹介したので、エドワードは一歩テーブルに近づいて、一息置き、挨拶をしようとした。

 時。

 ガタガタッ……。
 騒々しい音が響き、何事かと音のした方を見れば。
 そこには、立ち上がった時に倒れたと思しき椅子が、床に転がっていた。
 そして、その椅子を転がした人物を見ようと、視線を上へと向けた先。
 ラッセルの向こう側に、立つ人物を見た時。
 エドワードの金色の瞳は、最大限に開かれたのだ。
「――――どうして、あんたがここに…?」
 そこにいたのは。
 初対面の、人ではなかった。
 いや、今まで何度も見た事のある顔が、そこにあった。
 その顔も、驚きを露にしていた。
「…君こそ、何故、ここに…?」
 相手もまた、エドワードに問いかけてきた。
 そして、互いが答えを言う前に。
「――――二人とも、知り合いだったの?伯父さん…エドワード」
 二人の間にいた、ラッセルもまた、驚きを隠せずに、二人の顔を交互に見て問う。
 その、彼の言葉を聞いて、エドワードはようやく分かったのだ。
「ひょっとして……ラッセルの伯父さんっていうのは…」
 恐る恐るという風に、ラッセルの脇に立つ男の顔を見ると、その男もまた、何となく事の次第が理解できたのか、まだ驚いてはいるものの、幾らか落ち着いた表情で、エドワードの顔を見つめていた。
 その横から、何となくこの場の雰囲気に戸惑いつつも、一応ラッセルが紹介を始める。
「ここにいるのが、オレの伯父さん。名は……」
「よく知っているだろうが、一応名乗ろう。ロイ・マスタングだ」
「……こんばんは。さっきはどーも」
 ロイの挨拶に対し、エドワードは低い声で応じた。 
 ついさっき、別れの挨拶を済ませたばかりの、雇い主に対し。