イーストシティの恋人 10  

 家はごくごく普通の家庭で。
 しかも田舎暮らしだったことから、いわゆる上流階級の生活振りに触れる機会なんて、まずもってなかった。
 そして、これからも恐らくないだろうと思っていたのだけれど。

(……このバイトし始めてからは、そうじゃなくなったような気がする)
 気がする、ではなくて、実際に僅かではあるが触れているのだ、と、エドワードは考えを改めざるを得なかった。
 ほら、今だって……。

 ちらりと、自分の身体を見下ろすと。
 その、細身の身体に纏っているのは、真紅のドレスだ。
 そのドレスは、3日前の打ち合わせの時に、ロイが屋敷に呼びつけたドレスショップの店長が持ってきた中の、1着だ。
 何着も何着も、最後はエドワードがうんざりするくらいに試着させられた後に、ロイが気に入ったということで選んだものなのだが……。
(ちょっと、胸元開きすぎじゃないか?)
 と、胸のラインギリギリのビスチェドレスを眺めつつ、思った。
 これが、それなりに胸のある女性だとさまになるのだろうが、生憎エドワードは、平均以下だと自覚している。貧弱な胸が一層強調されているのではないだろうか…と、先程から気になっていた。
(……他のドレスが、良かったなあ)
 隣に座っているロイに気付かれぬように、そっと溜息をつく。自分としては、もっと、大人しいデザインのドレスが良かったのだが、雇い主の希望を蹴ることはできない。仕方なく、彼の選んだドレスを身に纏っていた。
(……それに、このネックレス…)
 開いた胸元に輝く、ダイヤのネックレスを見る。
 それは、大粒のダイヤが連なっている、ゴージャスなものだった。流石にそれは借り物だと、ロイは話していたが、借り物だからこそ一層緊張する。
 恐らく桁違いの値札がつけられているそれを身に着けていて、何かあったらどうしようか…と、気が気ではなかった。
 そして今は、招待客から配されたリムジンに乗り、晩餐会の会場へと向かっている。
(……ああ、やっぱり引き受けるんじゃなかったかな…)
 自分がいる世界とは余りに違いすぎる、ロイの生きる世界に、飛び込む前から既にエドワードは疲れ切っていた。
 しかし、今更断ることも出来ない。
 その認識はある。
 既に新しくアパートを借りる契約も完了し、エドワードが学校を卒業するまでの家賃も支払ってくれた。そのアパートは、以前エドワードが借りていたものよりも遥かにいい物件だ。それをじつにあっさりと契約してくれ、手続きも完了したのだから、今日の役目は絶対にこなさなくてはならない。
(―――あとは、晩餐会に出るだけだ)
 そう何度も言い聞かせて、堪える。
 あと数時間の辛抱だと。


「――――ドレスに皺が出来るぞ」
「…えっ?」
 考え込んでいたエドワードの隣から、声がする。
 慌てて自分の手を見ると、考えている間にドレスをギュッと握り締めていたらしい。
「あ………」
 慌てて離した彼女の前に、細身のシャンパンフルートが差し出される。
「え…っと…」
 その中に入れられた黄金色の液体から、小さな泡が上がっているのがとても綺麗だと、エドワードはぼんやり思った。
「飲みなさい。アルコール度数はそう高くないから、大丈夫だ。気分が落ち着くぞ」
「あ、ありがとう…」
 自分の目の前にある、シャンパンフルートを手に取り、ゆっくりと口に含む。
「――――美味しい」
 仄かな甘みが、口の中に広がる。
「そうか」
 エドワードの顔が綻ぶのを見て、ロイは微笑んだ。
「――――そんなに緊張しなくてもいい。晩餐会と言っても、招待客は私達だけの、ごくごく内輪なものだから」
「けど……大事な取引相手なんだろ?」
 シャンパンを飲み終えて、エドワードは尋ねる。
「オレがへまをしたら…まずいんじゃないか?」
「大丈夫だ。その言葉遣いだけ気をつけてくれていたら。後は私もフォローする」
 だから、普段どおりにしていればいい、と言いつつ、ロイはエドワードの手から、空になったシャンパンフルートを受け取った。
「――――君は、そのままでいればいい」
 深く、黒い瞳で見つめながら囁く声を聞いていると。
 エドワードは、いつしか自分の心が落ち着いてくるのを感じ取っていた。
(……ああ、同じだ…)
 彼の瞳の色は、落ち着かせてくれる。
 さっき飲んだシャンパンと同じように、自分の心を。



 エドワードは、肩から力を抜いて、シートに背中を預けた。
「…そうだよな。今更じたばたしたって、仕方ないもんな」
 ようやく笑みを浮かべて、ロイに話しかける。
「オレはオレなりに頑張るけど…何かへましそうだったら、助けてくれよな」
「ああ、分かっている」
 ロイが頷くのを見て、エドワードは鮮やかな笑顔をロイに見せた。
 それは。
 先程エドワードが飲んだシャンパンと同じ、鮮やかなもので。
 それを見た瞬間、ロイはその笑顔に目を奪われて、暫し彼女の顔を見つめるくらいのものだった。

(……何だ、今のは…?)
 これまで、数多くの美女達と、浮名を流してきた。だから、美しい女性は見慣れてしまい、その結果かなりの美女でも心を動かされなくなってしまった。
 だが、今は。
 今、一瞬。
 この、隣に座っている幼げな美少女(口は悪いが…)の、鮮やかな笑顔に見とれてしまった自分に、驚いていた。
 どうしてそうなったのか。
 その理由が分からないままに、二人を乗せたリムジンは、ゆっくりと1軒の豪邸ある敷地内へと、吸い込まれていった。





「――――えっ、あなたも、リゼンブールの出身なの?」


 マレー氏の自宅に到着したロイとエドワードは、夫妻の歓待を受けて、晩餐会が始まった。
 ロイの話していたとおり、客は彼等2人だけで、もてなす側も夫妻の2人だけという少人数だったお陰で、エドワードは余り緊張することなく、供される豪華な食事を楽しむことが出来ていた。
 その、食事の合間に、互いのことについての話題が上り……エドワードの出身を聞いて、マレー氏の妻であるテオドーラが驚いたように答えたのだった。
「あなたも……ということは?」
 エドワードも食事の手を止めて、目の前の上品そうな夫人の顔を見る。
「私も、リゼンブール出身なのよ。大人になるまでは、あの村で暮らしていたわ!」
「そうなんですか…」
 エドワードも、自然笑みが顔に浮かぶ。
「ああ、嬉しいわ!こんな所で、同郷の方とお会いできるなんて。しかも、こんなにお可愛らしいお嬢さんで」
 まるで子供のようにはしゃぎながら、テオドーラはエドワードと、リゼンブールの話に花を咲かせた。エドワードも、故郷の話が出来るということで、緊張を解いて彼女との会話を楽しむ。
 そんな、女性2人の様子を眺めていた男性陣もまた、目を細めて彼女達の遣り取りを聞いていた。
「―――いや、しかし、妻がこんなにはしゃぐのを見たのは、久しぶりだよ。今夜、あなた方を招待して良かったな」
 マレー氏も、楽しげにロイへと話しかけた。
 そんな彼の様子から、調書にあった『愛妻家』というデータは間違い出なかったと、ロイは心の中でほくそえむ。
「私達も、こんなに楽しい晩餐会に招待されて、光栄ですよ。夫人の料理も最高ですし」
「…えっ、この料理を全部あなたが…?」
 エドワードは驚いて眼を見開く。
「元々、料理は大好きなのだけれど、この人が私の手料理じゃないとダメだと言うから…」
「おいおい」
「あら、本当のことでしょ?」
 ニコニコと笑いながら言い切る妻に、マレー氏は照れ隠しをするかのように、頭を掻いた。
「とても仲がよろしくて、結構なことです」
「あら、あなた達もとてもお似合いよ」
 ロイの褒め言葉に、テオドーラはすぐさま返してきた。
「えっ……」
 彼女の言葉を聞いて、エドワードはギクリとする。
「マスタングさんのお噂はいろいろ聞いておりましたから、特定の方はいらっしゃらないかと思っていましたのに…。いつの間にか、こんな素敵なお嬢さんを捕まえていらしたのね」
「あ……その…オ……わ、私は……そんなん…」
 プライベートな晩餐会に連れてきたということで、どうやら夫人はエドワードのことを婚約者か何かと誤解しているようだ。
 それを慌てて、否定しようとしたエドワードだったが。

「―――ええ。私はいつでも受け入れる準備は出来ているのですが。彼女はまだ若いですからね。もう少し時間を置いて…と思ったりもしています」
(なっ、何言ってるんだよ!この男っ)
 いきなり、婚約者であることを肯定した上に、エドワードの手をギュッと握り締めてきたのだ。
 咄嗟に振り払おうとしたのを、すんでのことで留まる。
 今、自分は仕事中も同然なのだと気付き。
「まあ…。彼女のことをとても大切に思っているのね」
 我がことのように嬉しそうに話しかけてくる夫人に対し、エドワードは辛うじてニコッと笑うことが出来た。
(…仕事……これは仕事なんだ…)
と、胸のうちで何度も呟きつつ。
 そんなエドワードを見ているロイの眼差しは、端から見たら愛しい婚約者を見つめる男のものにしか映らなかっただろうが。
 エドワードにだけは、分かった。

 この、隣にいる男は。
 ただ、取引を上手く成功させるために、婚約者を大事にする男を演じているに過ぎないのだと。
 それが、当然のことなのだと。
 あくまでビジネスの上で、今夜付き合っているだけなのだと分かりきっていたのだが。
 エドワードにとっては。
 それが、何となく寂しく感じられた。


 そう思う理由は、分からないままに。






「――――すっかり、遅くなってしまったな」


 再び、リムジンで送ってもらって、エドワードが自分のアパート近くに着いたのは、すっかり翌日となった頃だった。
「夫人が君の事をすっかり気に入って、なかなか離してもらえなかったからな」
「―――それって、大成功ってこと?」
 車外へ出て、ぶすっとした顔のままエドワードは問う。
 マレー邸から出てずっと、エドワードの機嫌は悪かった。
「ああ。ほぼ、成功したといっていいだろう。ダンスも、なかなか上手だったし。だから、そんな不機嫌な顔をするな」
 帰る間中、不機嫌だったエドワードに苦笑を浮かべて言う。
「勝手に婚約者呼ばわりされたら、機嫌も悪くなるさ!」
 うやむやのうちに、ロイの婚約者に仕立て上げられてしまったのだ。
 事前の打ち合わせにはなかった事だったので、驚き、腹が立った。
 それでも何とか堪えることが出来たのは、優しいおっとりとした夫人の前で、諍いをしたくなかったのと、今回の同伴があくまでビジネスだという事実からだった。
「……でも、これからもずっと、婚約者だと誤解されたらまずいんじゃ…」
 エドワードの心配していることは、その点だった。
 今回の同伴が、1回だけのものだと思っているので、次に違う女性を連れて行った時には、ロイの立場がまずくならないのだろうか…と。
 しかし目の前の有能らしい社長は、あっさりと言い切ったのだ。
「大丈夫だ。今夜のことは、その時限りのことになるだろうからな。あの夫人も、長くは覚えていないだろう。他にお付き合いする人間がたくさんいることだしな」
 たった1夜限りの来賓の女性など、すぐに忘れてしまうだろう。
「それなら……いいけど…」
 エドワードは、裸の肩を手で撫でつつ、答える。
 夜中になって、冷えてきたようだ。剥き出しの肩には、その冷えは結構堪える。
「それじゃあ、オレはこの辺で……」
 寒いから早々にアパートへと戻ろうと、挨拶をしようとしたエドワードの肩に、ふわりと柔らかいものが掛けられる。
 それは、さっきまでロイが着ていたスーツの上着だった。
「…肩が寒そうだ。これを羽織って行け」
「えっ、いや、いいよ。オレの部屋、すぐそこだし…」
 上着を脱いだら、ロイの方が寒くなってしまうだろう。
 慌てて上着を脱ごうとするエドワードの手を、やんわりとロイが掴んで止めた。
「…私も、後は車に乗るだけだから、着て行きなさい。返すのは明日でいいから」
 と、優しく微笑み、囁く。
 それから少女の白い手の甲を取り、触れるだけのキスをする。
「……今夜は意外と楽しかった。ありがとう。
――――良い夢を」
 そう言い置いて、ロイは再びリムジンに乗り、立ち去った。
「……何だよ。意外にって」
 口調はぶっきらぼうだったが、その顔には笑みが浮かんでいた。


 顔はなかなかに好みのタイプだけれど。
 その中身はと言えば。
 きざったらしい奴。
 嫌味な奴。

 それでも、あの晩餐会の席では、自分を1人のレディーとして扱ってくれた。
 食事の後のダンスの時も、学校で習って以来で戸惑うエドワードを、優雅にエスコートしてくれた。
(……こんなことって、2度とないだろうな)
 自分には、縁のない世界だから。
 今回は、たまたま垣間見ることが出来たけれど、こんな機会などもうないだろう。
 『仕事』絡みの、一時の夢。
 一晩限りの夢。

「――――なかなか、楽しい夢だったな」

 まだほんのりと温もりの残る上着をギュッと握り締めて、エドワードはゆっくりと歩き始めた。

「…さて、と。明日も早いから、帰って寝よ」

 明日から再び始まる、現実に戻るために。
 今宵の出来事は、夢で終わらせるために。

 エドワードはゆっくりと、『現実の世界』へと戻っていった。





 ところが。


 再び、ささやかな現実の日常へと戻るかと思われたエドワードだったが。


 一歩踏み入れてしまった『夢の世界』が。
 エドワードをそこから出すことを、なかなか許さないということを、後日身をもって体験することになるとは。



 まだ夢の世界の余韻に浸っているエドワードは、知る由もなかった。